2026年3月12日木曜日

カゴの扉を開ける

 家庭医(オーストラリアではGPと呼ばれている)という仕事は、とにかく人に会う。事の大小はあれど、誰も健康に問題を抱えた人たちだ。GPのカバー範囲はとても広く、小さな怪我から一刻を争う心血管系の障害まで、言ってみれば次の患者さんがどんな訴えで入ってくるのかまったくわからない。妊娠したと思うとか、この子の頭の湿疹は何だろうとか、隣の家の騒音で眠れないとか、なんでもある。

メンタルヘルスの問題も日常診療の大事な一部だ。GPとして、それなりにトレーニングは受けたし、いわゆる標準治療というものを踏襲して診療はしているけれど、結局は同情とか共感とか、いままで自分自身(患者さんじゃなく僕自身の)の人生で思ってきたこと考えてきたこと経験してきたことをベースにして自分は診療しているんだな、ということを自覚している。それはそうだろうなと思うけれど、だけどこれは言ってみれば、自分史という「カゴ」の中から患者さんを見ているようなものだ。おそらく一流の精神科医や心理療法士は、そういった「カゴ」をもたずに患者さんを理解し、よりよい道を照らしてあげられるのだろう。けれど僕はまだ、自分のカゴの中からでしか患者さんを診ていない、といつも思っている。でも、時にはそのカゴの小さな扉を開けて外の空気に触れることがある。カゴの外にいる患者さんと触れあう瞬間だ。

ドリーンは80近いオーストラリア女性。慢性疾患を持つ長期で診ている患者さんだ。穏やかで物静かな、でも体の奥の方に芯を持った女性。数ヶ月前に夫とのことで心を病んでいたけれど、彼女は自分の力で夫との関係を改善し、時間はかかったけれどずいぶん落ち着いてきていた。いろいろ「解決」したのだと、彼女は先日笑って話してくれた。「いなくなりたい」と言っていた時期もあったけれど、彼女はそれを乗り越えてきた。

ところが数週間前、ふたたび無口になった彼女にその理由を聞いてみたところ、少し躊躇したあと、実は先週息子が事故でなくなったのだと言った。50歳間近の働き盛りで、良き父良き夫であった、彼女の自慢の息子だったと。あまりの突然、あまりのショック。こんなにこんなに悲しいのに涙が出てこないと、ドリーンは訥々と話した。

僕はほとんど何のアドバイスもできなかったけれど、ただ聞いて、頷いて、そして時々見上げる彼女の視線を受け止めた。やっと大きな山を乗り越え、新しい生活を送っていたというのに、どうしてまたそんな辛いことが降りかかるのか。

それから何度か彼女は受診した。葬儀もすませ、一通り落ち着いたとはいうものの、もちろん喪失感と悲しみは心の奥にしっかりと居続けている。受診のたび、「どうしてます?」と言って、彼女の話をただゆっくり聞いていた。

昨日、ドリーンがふたたび受診した。「だいじょうぶだと思う」と言う彼女にそれ以上のことは聞かず、紹介状とか薬の処方とかをすませ、診察を締めくくっていった。

彼女は椅子から立ち上がりドアに向かったけれど、部屋を出るのに躊躇していた。そして僕に顔を向けると、少しこわばった表情で、何か秘密を打ち明けるかのように聞いてきた。

「あなた、スピリットって信じる?」

え?スピリット? 魂? 

「え?、はい、まあ、うん、信じてます」

急な質問ですこし面食らった。彼女は、ホッとしたように少し笑って続けた。

「よかった。じゃあ話す。実は先日、娘が知り合いの紹介で Clairvoyant (占い師のような意味)に会ってきたの。兄はいまどこでどうしているのかを聞いてきたって」

正直ちょっと驚いた。一般的なオーストラリア人の年配の方が、教会やキリストや神の話じゃなく、こういう「スピリチャル」な話をするのはたぶん珍しい。

「そしたら、僕はいい場所にいて、幸せに暮らしているって」

彼女は一言一言を、ゆっくり大事そうに噛みしめて言った。

「そして、息子は私と夫のことをとても気にしているんだって。私たちの健康をとても気遣っている。

実は、あの時から、ときどき息子がそばに来ていることを感じることがあるのよ」

少し間が空いて、彼女は続けた。

「だから、わたしはだいじょうぶ。わたしはだいじょうぶ」

こわばっていた表情がゆるみ、彼女は微笑んだ。言い切った、そういう感じだった。

「聞いてくれて、ありがとう」

部屋を出ようとする彼女に僕は、話してくれてありがとう、僕もホッとしました、と伝えた。

「ドリーン、実は、僕はスピリットの土地から来たんですよ」

とつぜん思い出した。僕は沖縄という、魂に満ちた場所から来たんだということを。

「僕の生まれて育った土地は、魂が至るところにあって、人々はその魂をとても大切にしているんですよ。

祖先や、残念ながら先に亡くなった人たちの魂を敬い、祈り、そしてこの世にいる僕らのことを見守ってくれていることに感謝している。宗教と呼ぶのとはちょっと違うけど、そういう信仰を持つ場所で生まれ育ったんです。

だからドリーン、僕は息子さんのその話を信じます。彼はあなたを、あなたたちファミリーを見守っていると思う」

話しながら、とても懐かしい感情が自分の中に溢れるのを感じた。うつつ世とあの世の境界がにじんでいる、沖縄のあの濃厚な空気。亡き人たちの心や言葉がその境界から沁みだし、人々の生活に溶け込んでいく。日常生活の中でそれを明確に感じることが少ないのは、何故ならもうそれが日常生活の一部だからだ。

沖縄のあの温度と湿度。具体的な気温や湿度だけじゃなく、街や人の温度と湿度。海や森の温度と湿度。そしてあの世から送られてくる温度や湿度。

沖縄は「魂」の海の上に浮かぶ島なのかもしれない・・・。ドリーンとの短い会話の中で、そんなイメージを感じていた。

「ありがとう、だからわたしはもうだいじょうぶなの」

彼女はもう一度そう言って診察室を出た。

医者の仕事というのは、医学という名の科学に基づいている。たくさんのガイドラインやエビデンスがあり、医師の僕らはそれに沿って仕事をする。ガイドラインに沿わない診療をすることは、ある意味危険なことだ。患者さんの健康にとっても危険だし、ガイドラインを逸脱することは医師登録を脅かす可能性もあり、その意味では医師にとっても危険なことなのだ。柔軟な医療が行われているように思われているオーストラリアの医療だけど(おそらく西洋の国はほとんどそうだ)、実はその逆で、ガイドラインやエビデンスを強く信奉する傾向は日本より強いと思う。

新しい医学的知見、アップデートされ続ける医療ガイドライン、毎年課せられるトレーニングやアセスメント、僕らオーストラリアの医師は、毎日のようにそれらに追われている。身体のことはもちろん、心理ですらエビデンスを求められるのだ。

そんな日々を送っているからだろう、「スピリット」のことを思うことはほとんどなくなっていた。残念ながら、そんな状態がもう何年も経った。

彼女が部屋を去ったあと思い出した。二十年前に去った両親のこと、これまでに亡くなった友人たちのこと、彼ら彼女らの魂のことを、あのとき僕は確かに感じていた。

2011年3月11日のあと、被災地でたくさんの人たちから話を聞いた。喪失感、自責の念、後悔、無力感、あらゆる悲しみの表現が満ちていた。そこここに、亡くなった人々の形があり、その形の失われた空間に、生き延びた人たちの気持ちが流れ込んでいた。去ってしまった人たちと生き延びた人たちの境界は不明瞭で、お互いが行き来していたようだった。お互いが慈しみ合い、危ういバランだけれども、お互いが支え合っていたように見えた。

そうだった。どうか亡くなった人たちの魂が救われますようにと、僕はあのとき祈っていた。そして生き延びたすべての人を遠くから、あるいは寄り添って、見守り支えてくれますように、と祈った。

彼女が去った後の診察室で、僕はしばらくそんなことを思い出していた。

収まりの良い空間で医師の仕事を続けていた自分が、少しだけだけど、カゴの扉を開けた。つまり、そう、魂を、僕は信じている。



2025年3月12日水曜日

変わらないものなどない

 14年目の3月11日。

毎年この日になると、やはりあの時のことを思い出す。こうして年に一回、こんなふうに文章を書く。これは自分のためだ。忘れちゃいけないぞという戒めと、忘れないぞという決心のためだ。

もちろん忘れてなどいない。何も忘れていない。日本で災害が起きるたび、オーストラリアで災害が起きるたび、そして世界各地での災害、それと戦争、そういった情報に触れるたび、ひとつの原始体験として僕は2011年3月11日の日に起きた震災と津波のことを考える。もちろん僕はその時そこにいなかったし、遠く離れたオーストラリアの地でニュース(それにしても何て生々しいニュースだったろうか)に触れただけだけど、後にボランティアで入った大槌町の方々から聞いたその当時の話で、僕は一種の追体験をした。城山の高台の下に広がる光景を見るたび、この世界には「安定」というものは存在しないんだと思った。

その気持ちはこの14年の間に、確固たるものになってきている。

朝、犬と散歩している時に、近所の風景に地震と津波に蹂躙された街の風景が重なる。それから、洪水に見舞われたり森林火災で焼失したオーストラリアの街々、あるいは、突然侵略されたウクライナの街、今も続く世界各地の戦争、さまざまな光景を思い浮かべる。あまたの自然災害と、終わることのない人災。

今住んでいる家も、僕の住むこの地域も、いま、大きな問題もなくとても「安定」している。仕事も不都合なく続けているし、家族もそれぞれ安全な状態にある。自然災害にも人災にも、今のところ無縁に思える。でもこれは当たり前ではないのだと僕は感じる。いや正確に言えば、この当たり前はものすごく幸運なのだと思っている。なぜなら物事はほんの一瞬で変わると知っているから。

秋の風が窓の外の木々を揺らしている。コーヒーを傍らに置いて、快適な椅子に座ってこれを書いている。そして次にこれが全部、例えば Bush Fire (オーストラリアでは山火事のことをこう呼ぶ)に襲われてしまうことを想像する。いまここにあるのも、いま持っているものが全部焼け落ちてしまうことを想像する。こうやって頭の中でシミュレーションをする。散歩しながらもそんなことを想像する。

この快適さを削ぎ落として削ぎ落として、そのあと何が残るか。

やっぱりそれは命だけだ。僕の命? うん、もし僕の命が残ったとしたら、それは家族の命と誰かの命を守るために使えるといい。もし家族の命が救えるのなら、僕の命は差し出してもいい。けっこう本気でそんなことを思う。

これはたぶん、自分がそれなりに歳を取っておぼろげながらも死を考えるようになったこともあると思う。でも、3.11のあとに大槌町で出会った方々から聞いた話が強く影響しているのは確かだ。肉親友人を失って茫然としていた人たち、救えなかったことをひどく後悔していた人たち、生き残ったことで自分を責めていた人たち。生き残ったことで続けられた自分の命をどうしたらいいのかと苦しんでいた人たち。

ああ、自分の命をなんらかのトレードで使えれば!

世界は不条理だ。残念ながら命の後戻りはない。それを知ったのがあのときの大槌町での日々だった。

削ぎ落として削ぎ落として、最後に残るのは命。でもそれは、ほんとに残念ながら、自分で決められることではないのだ。

それはなにも災害のときだけではない。日常の、この「安定」した快適な日々でも、そうなのだ。変わらないものなどない、ずっと続くものなどない。じゃあいま自分はどうするか、生きるとはそれの選択でしかない。










2024年3月12日火曜日

「怒り」はどこへ行った

2011年3月11日の東日本大震災で命を落とされた方々のご冥福を改めて祈るとともに、ご家族ご友人を亡くされた方々に深い哀悼の意を送ります。


13年前、大槌町の避難所で、僕はとても怒っていた。表情にも態度にも出さなかったが、内心ではずっと憤りを抱えていた。変わらなかったからだ。


被災された人達の避難所での生活。春の訪れは近かったとはいえ、体育館の床は凍えるほど冷たく、外からの細かい粉塵が空気中に舞い、食事もほとんど冷たいものばかり。数週間後にトイレがようやく復旧し水も出るようになったけど、風呂やシャワーは限られた場所で限られた時間のみ。何より、とにかくプライバシーと呼べるものがほとんど確保できない生活。そんな状況が何ヶ月も続いていた。


それに比べ、ボランティアの僕らは恵まれていた。帰る場所があるからだ。少々難儀なことがあっても、やがてはそこを去り、温かく快適な場所に帰れる。とは言え、大槌でボランティア活動をしていた間、この「何も変わらない」状況に、常に怒りを覚えていた。


いま、日本で一番安心と安全が必要な人たちが、どうしていつまでも辛い避難所生活を送らなければならないのか。一瞬にしてたくさんのものを失った人たちをいつまでもこんな場所に閉じ込めておくのか。心と体が傷つき、必死の思いで逃げてきた人たちをいつまでこの冷たい床で生活させるのか。


政府、自治体、すべての国民が今こそあらゆるものを脇に置いて最大限の援助を速やかに行うべきじゃないのか。安心して眠れる場所を一刻も早く提供するのがつとめじゃないのか。遅々として進まない状況にとにかく僕は怒っていた。


13年が経ったけど、あの時のあの怒りは未だに思い出すことができる。


そして今年元旦。能登での大きな地震のニュースはここオーストラリアにも届いた。正月の華やかな時間が一瞬にして瓦解した。次々送られてくるニュースは、13年前と同じような内容だった。避難所での生活、水が出ない、トイレが使えない、食事は・・・。変わっていない。一刻も早く安心と安全が必要な人たちに、未だに冷たい床での生活が強いられている。憤る。


でも、なぜか真っ直ぐな感情が湧き起こらなかった。落ち着かないモヤモヤとした気持ちが、その怒りの表出を歪めているように感じていた。


13年前、あの地震と津波の映像を目の当たりにした僕は、まったくためらいなく「行かねば」と思った。しかしいま、僕はまっすぐに能登に行くことを考えもしなかった。そこの人たちの辛さ悲しさは想像に難くない。でも、ここ数年の出来事の多さにおそらく気持ちが麻痺しているのだと思う。ウクライナでの侵略戦争、ガザでの虐殺、アフリカで起きている内戦。目を疑うような出来事が世界中で次々起きている。能登の様子を知るのと同じ精度で、戦争のリアルが世界中から伝えられてくる。そんなニュースをひとつひとつ知るにつれ、僕は不安になる。状況に対する無力感、人間というものに対する猜疑心、そういったものが、底辺を流れる不安と行き場のない絶望に変わっていくのを感じる。怒りというよりも、もやは諦めに近い。分かっている、諦めてはいけないことは。


混沌としたこの状況は、インターネットやSNSの飛躍的進歩によってもたらされたのかもしれない。情報の伝達の早さは言うまでもなく、「誰でも」「いつでも」「なんでも」発言できることが、我々の頭脳をかき乱し、物事を不必要に混乱させ、正解と不正解をもてあそび、真っ直ぐな感情を揶揄したり貶めたり、議論の枝葉末節に膨大な数の言葉を羅列させる。さて自分はいったい何を考え何をしようとしていたのか?


ストレートな気持ちで行動することのなんと難しくなったことか。あの時に覚えた「怒り」は、たくさんの靴で踏みつけられ、土間に投げ捨てられてしまったかのようだ。


どういうことなんだろう。僕自身がどうしようもなく擦れてしまったのか、あるいはこの時代が、我々の感情に多種多様な人工着色料を投げ込んでいるのか。湧き上がる感情と、その帰結であるはずの行動がこうも繋がりにくい。


目を閉じて自分の声を聞くことの大事さを思い出さねば。

2023年3月11日土曜日

12年後の後悔

 12年前、僕はあの甚大な震災直後に岩手県大槌町に行き、そこで医療支援をしていたのだけど、今でも後悔することがある。それはたぶん、未曾有の被災地を目の当たりにして混乱し、気持ちが先走っていたからだと思う。

避難場所となっていた城山の体育館の卓球場を半分に仕切り、僕らは24時間体制の医務室として使っていた。そこは医務室兼生活の場であり、文字通り住み込みの状態だった。沖縄県医師会から派遣された医療従事者達の活動に加えてもらい、そこで寝食を共にしていた。

そのチームには地元の医師、保健師や薬剤師の方々も参加しておられ、その避難所以外からも被災者の方々が訪れ、保健師の方々に至っては訪問看護まで行っていた。すごい機動力だと僕は感心していたし、その手伝いができることが嬉しかった。

避難所生活を余儀なくされている方々を毎日診ていて、そこにいる誰もが地方自治体や国の施策の遅さと足りなさを感じていた。大きなレベルでの問題だけでなく、避難所内でも日々様々な問題が起きて(たとえば水や電気やトイレ、それからインフルエンザや様々な感染症、寝たきりの方の介護問題、急性疾患の対応の遅れ)、そのための対応策や今後起こりえることへの予防策を考えて方針を立てることなども必要だった。

僕はけっこう長くその現場にいたので、前後の成り行きや地元の方々とのネットワークにだんだんと精通し、結果として必然的にチームの取りまとめ役をするようになった。200−300名に渡る避難所内の方々のどなたが医療的な問題を抱えているのか、問題が起きた時の連絡を誰にどのようにするのか、そういったことを新しく参加した医療従事者にオリエンテーションをするのも僕の仕事となった。そんなことも含め、いま思えば僕はとても頑張ってしまったのだと思う。

避難所の方々の状況をもっと良くしたい、その地域への貢献をもっとしなければ・・・、そんな気持ちが、そのチームに負担をかけたのだと思っている。それは、支援のためにやってきた沖縄から派遣された医療従事者に対してではなく、地元大槌の医療従事者の方々に対してだ。

医師、保健師の方々、薬剤師の方々、そして避難所に生活している方の代表の方、そういった人たちに声をかけて、1日の仕事が終わった夕方から毎日ミーティングをしましょうと、声をかけたのだ。それは避難所や地域の方々のために行うことなので、という僕の提案にどなたも納得して(納得せざるを得ない提案だ)参加してくださった。僕は毎日問題点をびっしりノートに書いて、そのミーティングでひとつずつ取り上げた。十数人のチームメンバーに意見を求め、明日からの活動に活かすことを求める。そこで行われたことが、とても有意義で満足のいくものに僕は感じられていた。満足感、充足感、もしかしたら高揚感すら覚えていたかもしれない。

でも、あの時のことを思い出すたびに、僕は自責の念にかられ、心が苦しくなる。

そのミーティングに参加していた地元の方は、当然のことながら誰もがみな被災者だった。家を失い、家族ともども被災し(家族や友人を失った方も多かった)、避難所生活を強いられ、食べる物も満足なものではなく、衣料品も足りず、風呂やシャワーにもこと欠き、安全で安心な日々を送ることが難しい状況を送らざるを得ない。誰もがみな被災者だった。

その単純なことを僕は十分に思いやっていなかったと思う。「みんな」のために、という名目で、目の前にいる方々に無理を押しつけていた。一日の仕事が終わり、それだけでも避難生活をしている人たちにとっては大変なことなのに、夕方からのミーティングに参加してもらい、話し合いが尽きるまで付き合ってもらった。疲れた顔でずっとうつむいていた薬剤師の方を今でも思い出す。

有用なミーティングだったのかも知れない。でも、それはそんなやり方を取らなければならないようなものだったのかと自問すると、けっしてそうではなかったと思う。日中の時間を利用すれば、少々手間はかかるが、何とかなったはずだ。効率とか、もしかしたら「やってる感」を求めて、そんなミーティングを始めたのかもしれない。

あの時、日本で一番休息と休養が必要だった人たちだということを理解していながら、僕は目の前にいる方々に対して思慮を欠いていた。助けに来たぞ、応援に来たぞ、そう言ったはやる気持ちが駆り立てた行き過ぎた行為だったといまは思う。

支援とか援助とかボランティアといった行為は難しい。熟慮することなく支援する立場に立つと、「支援のためには少々の犠牲は必要だろう」という逆説的なことが起こりえる。その犠牲は二次的な被害となり得るにもかかわらず。

あの時の医療支援から戻って来て、あのミーティングのことを何度も思い出してきた。タイムマシンがあれば、その時に戻って自分に耳打ちしたいほどだ。目の前をよく見ろ、大きな視点はイコール冷静な視点ではないぞ、お前の満足のために支援をしているんじゃない、誰が何を必要としているのかまずはそこからだ、急ぐな効率を求めるな、頭を冷やせ。

12年が経った今も、そのことをよく思い出す。ミーティングのことだけでなく、他にも僕はいろんなプレッシャーを回りに与えていたのかもしれないとも。助けに来たんだから、それくらいはいいでしょう、と。

あの時、自分のための時間もままならない中で毎日のミーティングに付き合っていただいた方々に申し訳なかったと思う。と同時に、貴重な時間を使っていただいてありがとうございました、とも。いや、やっぱり申し訳ないの方が立つ。

次にそういった支援をする機会があるかは分からない。でも、もしそんなことがあれば、よく見ようと思う。支援者という視点だけでなく、様々な見方を学ぼう。「寄り添う」という言葉は手垢にまみれてあまり好きな言葉ではないが、その人の横に立ち何が見えるのか何を感じるのか何を求めているのかを思い理解する努力をしよう。

それは生きていく上でも大事なことで、それを気付かせてもらったという意味でも、12年前の経験は僕にとって大きなものだった。

そう締めくくることも、もしかしたら支援者の視点なのかもしれないが。

2022年3月11日金曜日

11年目:「普通」の生活

 ふとした時に災害について考える。いま何かが起きたらどうしたらいいか、起きる予兆をどう判断するか、何を持ち、どこへどうやって逃げるか。優先順位は? 家族との連絡をどうするか。旅行中にこんなことが起きたら? あんなことが起きたら? 食器を洗いながらそんなことを考えたりする。

11年前の東北大震災からだ。

津波直後の岩手沿岸の、あのたくさんの瓦礫を目の当たりにして、僕は言葉が出なかった。一人ひとりの生活がすさまじい暴力になぎ倒された跡にただただ驚いていた。こんなことが本当に起きるんだ・・・。ここで起きたんだ・・・。

僕の住むオーストラリアでも災害は起きる。夏のブッシュファイアー(山火事)は、時にとてつもない規模で森や町を焼く。数年前に起きたブッシュファイアーで、近くの町が一つ消えた。人の命も奪われる。今年もいくつも火事は起きた。

火事だけじゃない。いま東の州では何週間も大雨が続き、たくさんの建物が水に浸かり、多くの人が家を失った。それはまだ進行中だ。

海外を見回せば、それこそ常にどこかで災害が起きている。地震も噴火も洪水も火事も。突然起きて、いままでの生活が失われる。

そして、戦争という人災。とてつもない数の人の命が奪われて、見境なく、あるいは恣意的に街がいくつも壊される。昨日までの生活が、今日消えてしまう。文字通り、突然消えてしまう。

そんなことが本当に起こるのだ。起こっているのだ。

11年前に津波の被害を目撃した自分は、もう普通の生活が当たり前だとは思えなくなった。

いつか必ず何かは起きる。それがいつか、それは何か、どんな規模か、どんな状況か、そんなことはまったく分からないが、でもこの「普通」は永遠ではないと思った方が良い。そう自分に言い聞かせてきた。

もちろん神経症的に怯えて暮らす必要はないが、その想像力を持つことによって、自分にとっての大事なこと、つまり価値について考えるようになる。何よりも、いま現に「普通」が暴力的に奪われている人たちに対して思いを馳せられるようになる。「普通」であることは当たり前のことではなく(もちろん、誰にとっても当たり前であってほしいが)、ありがたいことなのだと知ることができる。ありがたいとは有り難いということ、当然ではないということだ。

その有り難いという気持ちが共有できる世界であってほしい。誰も暴力的に奪われない世界。いっさいの天災が起きない世界・・・、もちろんそんな都合のいい世界なんてあるわけがない。でも、少なくとも暴力的な人災を防ぐことはできるはずだ。普通の有り難さを実感できる人たちが増えていけば。





2021年3月11日木曜日

十年目

十年という歳月を振り返ってみる。うん、長い。いろんなことがあった。いい日もあればまあまあ悪い日もあった。しんどいこともあったけど、そんなに長続きはしなかったな。

言ってみれば、そこそこ平凡な日々。

大槌をはじめ震災と津波を受けた街の人たちにとっては、もちろんそうではなかった。一人ひとりに違う道があって、大変な思いをしながら辿ってきたのだろうなあと思う。いや、辿ったのではなく、一人ひとりが道を作ってきたのだと思う。目の前に広がる荒野に足を踏み出して、一歩一歩踏み固め、道を作ってきたのだと思う。

震災後、岩手県大槌町にほんのちょっとの時間だけど、ぼくはいた。あの時出会った人たちはそれぞれの道を歩み進んでいることだろう。特に中学生だった女の子3人組。今ではもう二十四,五歳だ。その内のひとりエリカちゃん(今はもう、エリカさん、ですね)は、奨学金を得て単身東京に勉強に出て、そのまま仕事に就いた。やや引っ込み思案な彼女にとって、寂しさや辛さは人一倍だったと思う。それでもほんとによく乗り切った。いまの仕事も大変そうだけど、なんともう4年目だという。すごいよ。誰にでも真似できることではない。

あの時に被災した一人ひとりが新しい道を作り進んで行った。崖っぷちの道があったかもしれない。荒涼とした砂漠に細く伸びる道かもしれない。ぬかるみの道、ゴツゴツした岩場を縫う道、濡れた道、藪におおわれた道。開けた稜線の道、谷沢へと落ちる急な道、寂寞とした夜道。その道はみな、元は荒野だった。思い切った一歩を踏み出し、地面を踏み固め、前に進んだからこそ生まれた道だ。不安と悲しみに満ちた世界から足を踏み出したからこそ、その道は生まれた。


後ろを振り返るとそこに道ができていた。でも決して真っ直ぐじゃない。右に曲がり、左に折れ、時には行きつ戻りつ、留まっていたところには小さな広場もできている。十年の歳月の作った道は驚くほど複雑で長い。


振り向いたとき、辿ってきた道を思い返すこともあるだろう。でも間違いなく、一人ひとりがその道の先に立っているのだ。


10年経った今、かの人々は目的地を見いだし力強い一歩を踏んでいるだろう。

2020年3月12日木曜日

九年目

個人的に慌ただしい一年だった。

3年前に一緒に岩手の大槌に行った義父が昨年の8月に亡くなった。85歳だった。
「死ぬ前にちゃんとこの目で見ておかなくちゃあな」と言っていた義父は、東北の東海岸を北は大槌から南は福島・茨城まで、たくさんの街や村や畑や海や山を目に焼き付け、先の言葉を体現するかのように、次第に体調を壊しやがて静かに逝ってしまった。

高校の元体育教師であり、その青年壮年時代をラグビーの選手としてあるいは指導者として過ごしてきた義父は、当時組合運動や社会運動にも加わり、社会や政治に対して常に一家言を持つ人だった。60を過ぎ退職してからはかなり積極的に日本中世界中を旅し、百カ国ちかくを実際に目にしたあとに「日本はな、先進国なんかじゃないぞ。りっぱな後進国だ」と言っていた。このお粗末な政治と政治家たち、理不尽で冷ややかな社会体制、貧しい人困っている人が救われないシステム、従順でお人好しな国民、政治家におもねる人々、選挙に行かない大衆。義父はよくそんな話をしては憤慨していた。

あの東北の旅でも、東北自動車道を北上している最中にそういう話は時々持ち上がっていた。しかし大槌に着いてその復興途中の風景とそこかしこの津波災害の残滓を眺めてからは、その様子が違った。義父はことあるごとに大きなため息を吐き、小さく「ちくしょう」と顔をしかめていた。

その表情は特に福島の海岸線を走っている時に顕著だった。捨てられた街。激しく生い茂る雑草や木々の中に建つ廃墟の街。枝道のすべてに立ち入り禁止のバリケードが張られ、不必要に止まるなと警告している。

助手席に座っていた義父は、窓の外に過ぎ去っていく街や村を見ながら、時に顔をしかめ「悔しいなぁ」と言っていた。

何かができたわけではない。何かをしたからといって、あの災害が防げたわけでもない。何がどう悔しいのかと問われても、きちんと返せる答えはきっとないだろう。

何をしても戻らない。たとえあの時に戻って激しく鐘を鳴らしたとしても、誰も信じないだろうし、何も変えられないだろう。巨大な物質の持つ慣性をちっぽけな手では止められないように、あの時の「時間」は誰にも何にも止めることはできなかった。

その、人の意思や思いなんかでは太刀打ちできないものに対して、つまり、大きな営みに対してまったく無力な人間に対して、義父は「悔しい」と感じたのかもしれない。

一週間にわたる旅を終え、義父はあちらへ行く前の務めを一つ果たしたと言っていた。

あれから9年、ぼくたちは今どの辺にいるのだろう。あの大災害を経て、ぼくたちはいまも助け合い励まし合いゆずりあっているだろうか。幸いにも幸運な側にいた人たちは(もちろんぼくも含め)、そうでなかった人たちのことを今も慮っているだろうか。

災害とは無縁であっても、弱い立場の人を気にかけているだろうか。そしてそれを行動に現しているだろうか。無理に微笑むことはせずとも、誰かに舌打ちをしたり妬みの眼差しを向けたりしていないだろうか。

良いことも悪いことも、様々なことが起こる。人は時に本当に無力だ。その無力さに「悔しい」とつぶやきながら、それでも人は生きていく。学び、努め、歩いて行く。

学び、努め、歩いて行きたい。

2019年3月11日月曜日

八年目

8年目。
あの時中学生だった子が昨年大学を卒業して仕事を始めた。8年とはそれくらい長い時間。
ボランティアで岩手の大槌で働いた後も、日本に帰る度に大槌の復興の状況とそこに住む人たちに会いに行っていた。3,4回は通ったと思う。特に二年半前の訪日の際には、80歳を越える義理の両親と三人で千葉の銚子から車を走らせ大槌を訪れた。そのあとずっと海岸沿いを南下し、地震と津波と原発の被害を受けた町々を通って行った。両親の「死ぬ前にきちんと見ておかなければ」という気持ちがさせたことだ。
でも今回の訪日では、東北へは行かなかった。語弊があるかも知れないが、もう煩わせてはいけないんじゃないかと思ったからだ。復興(という言葉を無邪気に使うつもりはないが)の主役の人々の中に、「進捗を見届けたい」とか「あの人たちはどうしているだろう」とか、そういった僕の側の興味や思い込みで入っていくことに躊躇いを感じたからだ。実は二年前の旅のときにすでにそう感じていた。この違和感は何なのか明確に伝えることは難しいけど、強いて例えれば、観客は役者の作る舞台に「観客として」参加することはできても、舞台そのものには上がれないーーーということだろうか。
応援はする。拍手もする。心を寄せて考えたりもする。でもね、腹をくくって参加しないのであれば、観客として応援に徹するのが礼儀なのかもしれないな。とそう思っている。
8年間、あの日から始まった長い時間を毎日毎日生きてきた人たちに、そう簡単に「寄り添う」なんてできない。おこがましいよ。
大槌のたくさんの人たちの顔が浮かぶ。誰もがあの日のことを思い出しているんだろう。苦しいことや辛いことや寒かったことや会いたい人のことなどを思い出しているんだろう。
どうかお元気で、また明日からお仕事や勉強に精を出して下さい。僕は僕で何かの形で応援しています。

2018年3月11日日曜日

七年目

七年目。昨晩とても久し振りにその時の日記を読み返した。

災害のあと、ぼくは岩手の大槌町で医療ボランティアをしていた。支援物資を目一杯積んだ車を運転し、雪混じりの峠道を越えて大槌に到着した時の驚きを今でも覚えている。その日から城山公民館の臨時医務室で五週間を過ごした。一日一日があっという間だった。たくさんの人に出会った。いろんな話をした。いろんな話を聞いた。

何かの助けになればと思って行ったのだけど、気負いが過ぎたのか、一人で空回りしたり、かえってそこの人たちに無理を強いていたり、日記の中の自分は毎日毎日浮いたり沈んだりを繰り返す。「そこに居続ける人」と「そこをいずれ去る人」との間には大きな河が流れているにもかかわらず、しかしともすると去る人たちはそのことを忘れてしまう。自分が当事者であるかのように考え振る舞ってしまう。ダメだなぁと日記を読み返しながらため息が出る。

五週間が過ぎてその避難所を去るとき、たくさんの人たちが見送ってくれた。「去る人」には帰る場所があり、帰る日があるのだ。ぼくが去った後も、みんなはその避難所でまたいつもの生活が待っている。ぼくは後ろめたかった。来たときは車体が沈むほど荷物が満載だったワゴン車がいまはガランと空っぽだ。城山を去るときの、バックミラーに映る彼ら彼女らの手を振る姿は今でもはっきりと覚えている。

大槌から釜石を経て遠野に向かう道すがら、いくつもの鯉のぼりが川岸に吹かれていた。美しい青空だった。春が来たんだ、ここにも春が来たんだ、と風に流れる鯉のぼりを見ていた。と、ラジオから松任谷由実の「春よ、来い」が流れてきた。ボロボロボロボロ泣きながら、僕はその歌を聞いていた。

七年が過ぎた。あの時出会ったすべての人に七年という時が流れた。中学生だった子が今年大学を卒業した。社会人としてもう立派に働いている子もいる。新しい仕事を見つけた人、住み家を再建した人。でもいまだ避難住宅での生活を強いられている人たちもいる。

もちろんぼくにもその時間が等しく流れた。七年という時間はじゅうぶん長い。いろんなことがあった。大槌にはあの後も数回訪れた。町の復興は緩やかではあるが確実に進んでいたけれど、それよりもはるかに人々の復興が先を行っているように感じた。

もはや何ができるわけでもなく、ただ単に旅人として、大槌の姿を見に行っているだけだ。いやただ一つできるとすれば、あの避難所の辛さ悲しさ、人々の気丈さとたくましさを伝えること。そこにいた方々はみなその時を経て来たのだということを、ぼくは知っている。それは誰もが知っているはずだ。

今日の昼過ぎ、北の空に向かって黙祷を捧げた。一万キロ向こうに住む人たちと、無念に命を失った人たちに祈った。今年も青く美しい春があの地に来ますように、と。


2016年4月28日木曜日

難民国家日本

毎年3月11日には、このブログに何かを書いてきた。今年もそうしようと思っていたのだけど、どうにもありきたりの言葉しか出てこず、ぼくは書くのをやめた。
でも、3.11の頃からある言葉が頭に浮かんでいて、もやもやとした気持ちでいた。
今日、なんとかそのことをまとめてみた。
もしよければ、少し長い文章だけれど読んでいただきたい。

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「難民」というキーワードを用いて、戦後の沖縄と原発事故避難者の方々の現状を語っておられる方がいる。精神科医の蟻塚亮二さんだ。
秀逸な考え方だと思った。
難民とは一般的に、災害や戦争などによって住処を奪われ避難してきた人たち、あるいは宗教や民族、政治的差別に基づく迫害から逃れてきた人たちを指す。今まで生きてきた場所と生活の基盤を暴力的に根こそぎ奪われる、それが難民だ。
例えば最近では、国内の政治的対立や大国による無差別空爆の起きているシリアから、何百万人もの難民がヨーロッパ諸国に押し寄せているという。
少しさかのぼれば、宗教と民族と言語の壁によって内側から完全に破壊された旧ユーゴスラビア、それから何十年も終わることのない内戦の続くスリランカ、他にもたくさんの国や地域から多くの難民が世界中に溢れてきた。
難民とは世界のほとんどの国にとって、いつのときも進行形としての問題である。人道的観点から隣国の難民を受け入れるべきだという意見と、いや自国の経済や安定を守るために門戸を閉じるべきだという意見の狭間に、近隣の国は立たされることになる。高度に政治的かつ人道的な問題、それが難民問題だ。
僕の住んでいるオーストラリアでも、この問題に対する議論は終わることがない。奇しくも今日は国会でナウル島難民収容キャンプにおける非人道的な運用に対して大々的な委員会が開かれた。ある国会議員が「私たちは彼らをすでに十分に苦しめてきた。こんな馬鹿げたことはいますぐやめるべきだ!」と政府の対応を質した。その言葉は多くのオーストラリア人に支持されている。
ひるがえって、日本や日本人にとって「難民」という言葉は遠い対岸の話にすぎない、と僕には思える。
おそらくあなたの横にも近所にも、戦禍や迫害から逃れてきた異国の人はいないだろう。いないように見えるだろう。
でもそれは違う。
日本は難民に溢れている。しかもとてつもない数だ。
戦後の沖縄。過酷な地上戦を生き延びた住民たちのほとんどが、その戦火で家族や家を失い、しかも敗戦の後、米軍による強制接収で多くの人が土地さえも失った。のみならず64年前の今日1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約で日本はアメリカに「日本国」の平和と安定を引き換えに琉球奄美諸島を手渡した。こうして南西諸島は数十万人の難民を抱える実質的な巨大難民キャンプとなった。歴史的に沖縄奄美は「元日本人」を抱えた難民収容所として戦後を生きてきることになったというわけだ。
そして、アメリカ政府の圧政の元で20年を生き延びた琉球難民キャンプは祖国復帰という名の下で、今度は日本政府による懐柔的圧政に甘んじることになる。今の沖縄を見れば(特に辺野古や宜野湾基地問題)、いまだに沖縄は難民キャンプとしてしか見なされていないのではないかと思う。幾重にも包装紙に包まれ、色とりどりの飾りのつけられた、難民たちの島。
そして2011年、東日本大震災。いったいどれだけの人が家と家族と土地を失ったか。地震、津波という天災の後、数ヶ月ものあいだ公民館や体育館で避難所生活を強いられ、その後は仮設住宅。その生活ももう5年になる。被災者という言葉は事実を表しただけの言葉だ。その実態は難民だ。元いた場所を津波という災害で暴力的に奪われ、生活の基盤をことごとく失ったのだから。
僕は震災直後の岩手で、何百人もの人たちが生活している避難所を見て憤ったことを覚えている。いまもっとも手厚いケアがなされなくちゃいけない人たちが、どうしていつまでもこんな目にあっているのか。日本は日本人はいまできる最大の努力を持ってこの人たちを暖かく守ってあげなくちゃいけないはずだ、と。しかし5年経ついま、現状はどうか。
そして、その震災に伴って起きた原発事故は、はるかに複雑な状況の難民を生み出した。
そこには自分の家がある。一緒に住むことのできる家族もいる。仕事もまだできるはずだ。しかし、目に見えぬ放射能という脅威によって、いままでの概念では説明できない違う形の暴力によって、人々は土地と住処を奪われた。政治的な線引きで避難区域が決められ、住民は彼らとは遠いところにある何者かの恣意に沿って身の振り方さえも規定されてしまった。住民たちの生活や人生そのものに直接影響する「ライン」が、具象的にも抽象的にも住民たちの間に引かれてしまった。
放射能から逃れて他地域に移住した人たち(文字通りの難民だ)も大勢いる。逃れるというその行為が、逃げずにそこにい続ける人たちから非難されたり、あるいは逃れた先の自治体から温かく迎えてもらえないという事実もある。「私たちは棄民なんだ」と、子供を連れて避難した母親は言う。国からも自治体からも住民からも棄てられたという意味だ。
いま、熊本でも震災被害者が避難所で生活を強いられている。阪神でもそうだった、新潟でもそうだった。
在日コリアンの中にも第二次世界大戦や朝鮮戦争によって難民となり日本に住むことになった人たちがいる。
日本は難民に溢れているのだ。
本人たちの意思や責任の及ばぬことによって、つまり戦争や災害や人種や生まれた場所や政治や宗教や生きてきた文化によって、理不尽に作られてしまった「難民」。
日本は難民に溢れている。あなたの隣には難民がいる。
家を奪われ、生活を奪われ、土地を奪われ、ようやく辿り着いた場所に、その人たちの居場所はあるのか。避難所や仮設住宅をあてがい、我々は責任を果たしたと満足してはいないか。
「私たちは彼らをすでに十分に苦しめてきた。こんな馬鹿げたことはいますぐやめるべきだ」
その言葉を私たちのいったい誰が叫ぶのか。
蟻塚さんは現在、沖縄戦を生き延びた人たちの心の中に今でも生々しく続く心の苦しみの治療と、東日本大震災で被害に遭われた方々の精神的ケアを、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の観点に立って行われている。その方々の呈する症状が、ヨーロッパ大戦におけるPTSD、特にユダヤ人たちの受けた悲惨な経験の引き起こしたPTSDの症状に通づるものがあるのだと指摘している。
日本の中に溢れる難民となってしまった人たちの苦しみと辛さは、難民なんて対岸の話さとテレビの中のニュースを一瞥するだけの私たちには分からないものかもしれない。
でもこれだけは覚えておこう。
難民は、本人たちの意思や責任の及ばぬことによって生まれるものなのだということを。
つまり、これは明日のわたしなのだ。
明日のわたしの家族の姿なのだ。


2015年3月11日水曜日

4年目に思うこと

4年前、2011年の4月、大槌の城山体育館の仮設診療所で働いていたとき。体育館の冷たい床の上で大勢の方々が何週間も生活せざるを得ないのを見ていた。住み家を失い、大切な人を失い、町を失い、持っていたものをすべて失った人たちを見て、ぼくは思った。

―――この方々こそ、いますぐもっとも安全で快適な場所で休んでもらうべきだ。

ところが現実は、衣食住の何も満たされず、プライバシーもなく、泣いたり悲しんだり、そんなことのできる場所のどこにもない生活。水や電気も長らく使えなかった。外の埃が避難所に舞い込んでくる。咳き込む人が日増しに多くなる。冷たい食事が続く。

いったいその状況はどれだけ続いたのか。5月上旬にぼくがそこを離れたとき、仮設住宅に避難所から移っていった人はまだ誰もいなかった。2ヶ月が経ってもそんな状態だった。

あの時、日本でもっとも辛いことに遭った人たちが、二ヶ月経っても体育館の冷たい床の上で生活していた。日本でもっとも休息と安らかな時間が必要とされていた人たちが、あんなにも長く辛い時間を過ごさざるを得なかった。

あの時ぼくはこう思った。

日本は、日本人は、いま何をさておいてもこの方々に最大の安息と休養を与えるように努力するべきだと。それが何よりも優先されるべきだと。何よりもまずその方々の身体と精神の回復が先だ。

その責任の主体は日本政府であるべきだ。

あれから4年が経った。

2年を目処の仮設住宅で暮らす方々が、4年経つ今も8万人以上おられる。住み家を失い、他所で避難生活を送っている人は今もなお22万人以上。

4年前に思ったことはいまでも同じだ。日本という国を考えるとき、北日本での未曾有の災害に遭った人たちがいまどうしているのかを知ることが、この国の進んでいる道を判断する大きな指標となる。

ぼくには正しい道を歩んでいるようにはどうしても思えない。

どうしても思えないのだ。

2015年1月12日月曜日

2015年、新年のあいさつ

皆様
遅くなりましたが、新年のあいさつを送ります。

昨年は念願のオーストラリアの医師免許(本免)を取ることができ、この異国の地で、晴れて(とりあえず)一人前の医師となったわけですが、だからといって個人的に大きなできごとがあったわけでもなく、大きな変化に見舞われたわけでもなく、仕事の上で大きくなった責任と忙しくなった日常業務に追い立てられたような一年でありました。ま、我ながら、ようガンバッタヨ、という感じです。
妻の理江は、毎日の家事をこなすことと三人の子供達の面倒を見つつ、陶芸にもせっせといそしんでいた一年であったようです。陶芸作品もギャラリーでずいぶん売れていたようです。ぼくのような素人目にも作品のレベルは確実に上がっているのが分かります。継続は力、好きこそものの上手なれ、です。
18歳の長男、春樹は昨年大学に合格したものの「ギャップ・イヤー」という制度を利用して、一年間の入学延期。昨年はバイトをしつつ毎日ずいぶんと楽しく過ごしていたようです。年末にはオーストラリア人の友人三人と共に日本旅行にでかけ、ずいぶんの珍道中をしてきたようです。いわゆる青春まっしぐらです。今年は大学生活が始まり、きっと洒落にならんくらい勉強せざるを得ないでしょう。
長女の花は16歳。今年は高校の最終学年で、受験の年。絵を描いて暮らして行きたいという漠然とした将来像を描いているものの、それを具体化するための助走にもいたっていない感じ。見てるこっちが焦るほど。でも、まわりが気を急いても仕方がない。腰を据えて見守るしかないのでしょうか。
末っ子の桂は10歳。彼女にとって今年は小学校の最終学年となります。文武両道を目指しているようですが、スプリンター、あるいはサッカー選手というのが、現段階での彼女の将来の夢。身体も心もまるで毎日成長しているかのよう。やせっぽっちにもかかわらず、この年齢で信じられないくらい食べます。

子供達は三者三様なれど、みんなとても元気。そして、50を過ぎて小さなガタに見舞われながらも、妻もぼくもそれなりに元気であります。

さて、家の外のこと、社会的なこと。つまり、世界でのできごと、オーストラリアでのできごと。日本でのできごと、そして我がふるさと沖縄でのできごと。

あまりにたくさんのできごとがあり、あまりにたくさんの語られていることがある。

この世の中は、年を追うごとにますます息苦しくなっているように思えます。特に、弱い立場のものに対して、社会は不寛容になっています。正義という名のもとに、人々は集団で攻撃を仕掛けることだって起きている。正義が人の尊厳や命をないがしろにすることが、最近特に増えているように思う。

と同時に、たくさんの「正しいこと」に対してコミットメントを求められるようになってきたのも、ここ最近のこと。たくさんの「許せないこと」が明らかになり、それに対して声を上げないことを許さないような、もう一方の社会。FBを始めとするSNSの発達に応じて、その傾向が進んできたように感じます。

何が自分にとって大事なことなのか。生きて行く上での優先順位は何なのか。立ち止まってよく考えてたり感じたりするのに時間が必要です。声高な正義や正しさといったものは、小さな自分が何かを考えようとするときにノイズとなることだってあります。自分の生きている世界はどうなっているのか、自分が生きて行きたい世界はどういう世界なのか。自分はその中で何にコミットメントしていきたいのか。そういう問いをきちんと立てて、静かな時間の中で考えたり感じたりしたい。

そういう時をもっと持とう。
それは次に行動につながる。
その行動が、自分のほんとうのコミットメント。

最後に、最近心に触れた言葉を紹介して終わります。
どうか皆さんにとっても、実りある一年となりますよう。
苦しんでいる人達に癒しが、悲しんでいる人達に安らぎが訪れますように。



I do my thing and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
You are you, and I am I,
and if by chance we find each other, it's beautiful.
If not, it can't be helped.
(Fritz Perls, "Gestalt Therapy Verbatim", 1969)

わたしはわたしのことをする。あなたはあなたのことをする。
わたしはあなたの期待に応えるためにこの世にいるわけじゃない。
それはあなたもおなじ。わたしの期待に応えるために生きているわけじゃない。
そう。あなたはあなた。わたしはわたし。
でももし、なにかのきっかけでおたがいが知りあえたら、それはとてもすばらしいこと。出会えなかったとしても、それはそれでしかたのないこと。
(フリッツ・パールズ、ゲシュタルト療法の言葉、1969年)


2014年3月11日火曜日

3年目

大きな出来事を考えるとき、いったいどこから考えを始めたらいいのか分からなくなる。入り口というかとっかかりというか、あまりに出来事が大きすぎて、しかもたくさんの人が様々なことを言っていて、まず始めの手がかりを探すだけで時間がさらさらと過ぎていくように感じてしまう。

今朝、当直明けの朝食を水辺にあるカフェで食べながら、そんなことを感じていた。つまり、3年目の今日のことだ。

「3.11」の重みは、年々大きくなっていくような気がする。初めの年は、つまり震災の直後は「なんとかしなくては」「とにかく行こう」というふうに過ぎていった。ぼくはその気持ちに従い、そのまま行動に移した。

2年目、ぼくは家族と一緒に大槌を訪ねた。街も人も前を向いて進んでいるように感じた。そしてぼくは、そのあとすっかりと仕事と日常の忙しさに埋もれていった。海の向こうの日本ではいろんなことが起こっていて、いまも起こりつづけている。そう、ほんとにいろんなことが。

残念ながら、被災した人や街のことは、単にそのいろんなことの一つとなってしまったかのように思える。

何がどうなってしまっているのか。ぼくはその何がどうなってしまったのかということを考えようとするが、その手がかりが探せずに半ば途方に暮れる。

カフェの窓の向こうに見える水面を眺めながら考える。

突き詰めると「何ができるか」なのかなと、ふっと思う。何がどうなのかとか、この現実の語ることは何なのかといった、頭で考えることではなくて。

時間、労力だけじゃない。「思いを寄せる」ことも含めて、何ができるか ------ なんだと思う。労力を傾けたり、時間を費やすことは、じつは案外難しいことではない。しんどいことは、思いを寄せ、想像し、胸を痛め、憤り、そして自分の心の中にうずまくマグマを見つけることだ。あるいは、マグマを自ら湧き起こさせることだ。そしてそのことで動き出す自分と、どう向かい合うかということだ。自らの想像力のもたらすマグマに対面することだ。

「忘れない」ということは、そういう苦しみを伴うこと。

自分の日常の中に、他者の苦しみや悲しみをどう迎え入れることができるか。オマエはそれができるのかどうなのか、その試練を言っているのだ。

そういうことなのだ。

手を抜くな。逃げるな。怖れるな、オレ。

2013年3月11日月曜日

2年目の今日

昨日から今日と、2年目の今日に対していくつか文章を書いたのだけど、どれも途中でやめてしまった。圧倒的な事実の前に、自分のつづる言葉の小ささと軽さに大きな溜息が出る。姑息ささえ感じる
朝、子供たちに「今日は日本のあの地震と津波の日からちょうど二年なんだよ」と言うと、ええ、もうそんなに経つんだ、と驚いていた。オーストラリアに住んでいるともちろん学校や友人の間でそんなことが話題になることもない。
「2時ちょっと前になったら、授業中でも休み時間でもいいから、5秒でも10秒でもお祈りしなさいね」と言うと三人ともうなずいていた。(ここの時差は日本と一時間)
ぼくもその時間になったら、亡くなられた人たちと、幸せを引き裂かれてしまった人々のために祈ります。もしかしたらどんな文章よりも大事なのかもしれません。
ああ、もうすぐその時間ですね。

2013年1月8日火曜日

2013年 再生を図る年


年の初めにはいつも、友人らに向けた年賀の挨拶を書いている。基本的には自分と自分の家族の近況などを中心としたものだけど、今年はそれに少々長い文章が加わってしまった。おそらく、いま自分がもっとも考えていて、一番言いたいことなんだと思う。

ここにその部分を書き抜いて記しておきたい。


ーーーーー
2011年の3月11日を境に、日本は大きく変わりました。そんなことはない、あれだけのことを経験してけっきょく何も変わってないという意見もありますが、いえやはり、日本はバケツをひっくり返したような状況にまだあります。なにも解決していないし、なにも落ち着いてない。どこへ進むのかすら決められないままです。

政治や経済状況も変化の中にありますが、やはり日本人一人ひとりがあの震災を経て、それぞれに何かを感じ何かを考え、そして変わってきたはずです。どんな形にせよ、あの震災の巨大な爪痕は、たとえまったく被害を受けなかった人たちの心にも刻まれているはずです。意識的な変化にせよ、無意識の奥の変化にせよ。

そしてその爪痕は、日本にいる日本人だけではなく、海外に住む日本人にもしっかり刻まれています。もしかしたら渦中にいてその痛みのありかを捕らえられずにいる人たちよりも、遠く離れてもどかしい気持ちを抱えたまま祖国を見つめている分、その傷の大きさと深さを実感しているかもしれません。

爪痕の作った形の集合体が日本という国をどこへ向かわせているのか、ぼくは正直なところまったく分かりません。そして残念ながらぼくはその行方を楽観できずにいます。

年始の挨拶で政治的なことをとりあげるのはふさわしくないかもしれませんが、昨年暮れの選挙の結果を見て、ぼくは本当に落胆しました。あらゆる価値が変わってしまったこの国の行方を問うのではなく、起きてしまったこの変化を、まるでなかったことにしてしまおうとでも言うような結果に見えたからです。

「オレはもう日本を見限った!」 
「もういい、もうあなたたちで好きなようにしたらいい・・・」
そうぼくは思いました。

でも驚いたのは、不本意な結果にもかかわらず、選挙のあとすぐに多くの人たちが「諦めないぞ」と声を上げていたことです。

明らかにぼくの思う悔しさ歯がゆさ憤りの何十倍も何百倍も抱えている人たちが日本にいて、しかも諦めないと宣言している。それが大勢なのか少数なのかわからない。でもそのうちの何人か十何人かはぼくの友人でもある。

それに、被災者のなかには「失望」という言葉なんかでは足りない思いをしている人たちがいるに違いない。まるでなかったかのようにされたのだから。その悔しさはいかばかりか・・・。

いろいろな考えが頭の中をぐるぐると駆け回っていました。
失望と希望と諦めと気付きと憤りと救い。

ぼくらが信じてきた、なにか大きなものが崩れてしまった。その信じていたものは、じつは人々が信じていたから存在していたのだと、ぼくらは知りました。それは、あやうい幻想の上に成り立っていただけなんだと、ぼくらは知りました。

そのことを無視することもできるでしょう。でもたとえ見ぬふりをしたとしても、もうそこには「それ」はないのです。もうぼくらは違う時代の違う場所にいるのです。あの時には戻れないのです。

2013年。おそらく今年は再生を図る年になるでしょう。土を耕し種を蒔き、うまくいけば芽が出るのを見ることができるかもしれない。

諦めずに投げ捨てずに、新しい革の袋に新しい水を注ぎましょう。

もちろん、日本の行く末なんていう大きなことばかりをいうのではなく、毎日の生活やそれぞれの仕事の中にこそ新しい息吹が隠れています。子供たちや弱き生き物たちに向けるまなざし、よく見えない場所にいる人たちへ向ける手。上や下をばかり見るのではなく、横や後ろも見ながら生きてみる。

どうかどうかこの一年が、あなたにもわたしにも、すべての人たちにとってほんとうの幸せをもたらす一年になりますよう祈ります。

その祈りが、表面的なものではなく、心の底からわき起こってくる一年になりますよう。

2013年1月

2012年3月11日日曜日

3月11日に


3月11日、朝五時。深夜当直の真っ最中。

いろんなことが胸を去来する。

昨日 FaceBook に書いたものの転載だけれど、正直な自分の気持ちとしてこれを残しておく。



一年前のいま、誰もがいつもの日と同じように過ごしていた。

まさか、まさか、次の日の夜がいつもと全く違う夜になるとは、誰も誰も想像していなかった。
まったく被害を受けなかったぼくですら、そのことを思うだけで胸がとても痛い。きっと大勢の人が、いま同じことを考えているのだろう。

同じ日が明日も来るという保証はない。それでもぼくらは毎日を、今日という一日を、いやだからこそ、大事に大切に生きて行かなくちゃいけないのだと思っている。

どうかどうか、被災された人たちが心穏やかなときを過ごされますように。お亡くなりになった方々が、彼岸で安らかにありますように。

精神の奥深い所で、去年のあの時の驚きと悲しみが渦巻いているような感じがしている。何千万人の人たちと思いがきっとシンクロしているのだろう。轟々と深海流が音を立てて流れているかのように、苦しみや悲しみが、ぼくだけでなく多くの人たちの心の奥底を揺さぶっている。沈黙と祈りをもって、魂よ鎮まりたまえ。



今日は、特別なことは何もできない。
ただ、家族と一緒に黙祷を捧げるだけです。

大槌への旅4:宴の夜



吉里吉里に向かう途中の料亭が、その晩の宴の場所だった。道又先生に連れられて、ぼくら一家もそこへ。たくさんの懐かしい顔ぶれが、次から次へとやってきた。

道又先生夫妻はもちろん、その娘さんの祥江ちゃんも参加。祥江ちゃんは、じつはぼくらの住むオーストラリアのパースに短期ホームステイで昨年やって来た。だから子供たちとも顔見知りだ。彼女のそのホームステイは、あるNGO団体が主催したもので、被災した子供たちに対する支援の一環として行っていたのものだ。災害後のまだ混乱している時期に我が子を外国に送ることに、道又先生も奥さんもだいぶ心配だったらしいが、とても元気になって帰ってきた我が子を見て、行かせて良かったとしみじみおっしゃっていた。祥江ちゃんもそれはそれは楽しく有意義な日々を送っていたらしい。子供のポテンシャルには、いつも驚かされる。

それから、つくし薬局の皆さん。親分の金澤さんをはじめ、あの城山体育館仮設診療所で一緒に働いた薬剤師さんたちもみんな元気そうだ。忘れていけないのは、皆、津波の被災者だということだ。つくし薬局の皆さんは災害後すぐに避難所に薬局を開き、壊滅的打撃を受けた大槌の医療の立ち上げにとても大きな貢献をしてきた。彼ら彼女らはそれぞれに大きな被害を受けていて、本来なら仕事どころじゃなかったはずなのだ。にもかかわらず、とても真摯にそして丁寧に毎日の仕事をこなしていた。


つくし薬局の皆さん
(ボスの金澤さんは残念ながら写ってません)
そのつくし薬局の彼女たちは、その晩の宴の席で、「今だから言いますけど」と前置きしつつ、あの頃の毎日がどんなにたいへんだったかを話してくれた。年頃の女の子が何日もシャワーもお風呂も入れなかったこと、食べたいものを手に入れることがどんなに難しかったかということ。医療班が食べている夕食の匂いがたまらなかったことなど(なんだよ、いっしょにどうって誘ったじゃないかよおと反論はしたのだけど)、笑い話にして語っていたけれど、おそらく語れないような辛いこともきっとたくさんあったはずだ。

小向さんもやって来た。彼女は城山体育館避難所のかつてのリーダー的存在で(本人は「リーダーなんかいや!」とずっと言い続けていたが)、彼女のおかげで避難生活をされている人たちの状況や避難所の問題点などを的確に知ることができ、診療にあたっていた我々はどれだけ助かったことか。その彼女も、昨年の短期沖縄訪問のあと、しばらくは本気で沖縄永住を考えたらしいのだが、けっきょく大槌に仕事が見つかり両親共々ここで暮らしている。大槌のこれからの復興に、彼女のパワーと機転はきっと重要な役割を担っていくはずだ。

個人的にとても嬉しかったのは、ぼくの「教え子」たちが来てくれたことだ。エリカちゃん、ユリアちゃん、コトミちゃん。この、高校生の仲良し3人組(2人は姉妹なのだが)も、当時城山体育館に避難していた。避難所で生活をしているということは、家を失ったということをもちろん意味するのだけど、この仲良し3人組はいつも明るく、ほんとによく笑っていた。彼女たちのいた体育館の一角は、そのおかげで他よりも明るく見えたくらいだ。ちょっとしたきっかけで、ぼくは診療の合間に彼女たちの英語の勉強を見ることになり、いつのまにか彼女たちに「ティーチャー、ティーチャー」と呼ばれるようになった。医者も「先生」と呼ばれるが、違う「先生」をやることになるとはなあと、彼女たちにそう呼ばれるたび照れくさかった。そう、その晩はその3人も来てくれたのだ。お母さんも一緒だ。またこうして彼女たちの笑顔が見られて、ほんとに嬉しかった。

昨年五月に大槌町を去るとき、道又先生は何度も「いやあ、大槌の美味しい魚を食べさせたかったなあ。美味しいお酒を飲ませたかったなあ」とおっしゃっていた。わざわざ沖縄やオーストラリアから来たぼくら医療チームに、何とかお礼をしたいのだけど、こんな状況だからなんにもないんですよと、とても悔しそうだった。

その晩の宴は、美味しい魚とカニがどっさり載ったお膳と、おいしいおいしい地元のお酒。道又先生のあのときの言葉を思い出しつつ、美味しくいただいた。そしてコップや銚子を手に、あちこちテーブルを回って皆の話を聞いて回る。

「じつはあのときは、」という話が、いろんな方から聞けた。知らなかったことばかりだ。やっぱりというか、当然のことながら、みんなみんな本当に大変だった。ぼくがあの時想像していたよりも、ずっとずっと大変だった。今更ながら、ああこうしておけばよかったなあとか、こうしてあげればよかったなあとか、あの時の自分の思いの至らなさに反省しつつ話を聞いていた。

それにしても、皆とても素晴らしい笑顔だった。まだまだ困難な状況が続いているはずなのに、皆生き生きとしている。避難所で会っていたときも、その晩会った人たちは皆笑顔を向けていたけれども、いま思えば、あの時の笑顔は緊張の中の笑顔だったように思う。あのとんでもない日から10ヶ月が経ち、いくらかでも穏やかな日々を送れるようになったのだろう。心から、ほんとによかったと思った。

妻と子供たちも、それぞれにあちこちで話をしている。昨年ぼくが単身で支援に発ったとき、妻はここオーストラリア・バンバリーに子供たちと残り、被災者支援のために地元でチャリティーコンサートをいくつか企画し実行した。現地に行けない身としてのその行動力に、ぼくはすごいと思った。子供たちも、父や母の行動や話を見聞きしてきて、きっとそれぞれに思うことがあっただろう。妻や子たちが、ぼくの知り合った人たちと一緒に話をしているのを見て、とても感慨深かった。十何時間も電車を乗り継いで来たのだけど、今回大槌にこうしてやってきて本当によかった。


みんなで。
ほんとにありがとう。


翌朝、ぼくらは大槌を発った。道又先生の奥さんと、義兄の平野さんに釜石まで送っていただく。なんともありがたく、なんともうれしい。大槌という、それまでまったく知ることのなかった町の人たちと、ぼくら家族はきっとこれからも関わっていくことになると思う。これが「縁」でなくてなんだろう。一期一会、その言葉を噛みしめながら、手を振ってお別れした。

ほんとにありがとうございました。どうか皆さん、これからもずっとお元気で。
それ以外の言葉は思い付かない。

大槌への旅3:点描

道又先生の案内で、この十ヶ月で変わった大槌の風景をさらにいろいろと案内してもらった。写真で紹介する。

道又医院には、沖縄の若松病院スタッフから送られた寄せ書きが張られていた。

一時期百人以上が寝起きしていた城山体育館。いまはもちろん誰もいない。

仮設診療所とつくし薬局が併設されていた城山体育館の遊戯室。いまはもう、卓球台がいくつか見えるだけ。

大きなプレハブ校舎。大槌町のほとんどの小中学校は一ヶ所に集められた。

弓道場の避難所で奮闘されていた植田先生も、仮設診療所をオープンして以前のスタッフと診療をはじめていた。相変わらずの元気さと明るさに圧倒される。
藤丸先生も診療所を開いていたが、検査中でお会いできず残念。

つくし薬局、仮設とはいえ立派だ。

大槌病院。これもまだ仮設。院長、副院長ともとても元気でした。

大槌町のあちこちに、プレハブの仮設店舗が見られた。
びっくりするくらい多種多様な店舗が隣り合っている。
店の明かり一つひとつが、人々の支えになっているに違いない。

大槌への旅2:変わりゆく風景



釜石駅、昼前。雪景色だった内陸とは打って変わって、沿岸は雪など全くないよく晴れた青空だった。

内陸から東に向かう鉄道は、釜石駅を終点とする。一年前まではそこから南北に線路が延び、東北沿岸を延々と列車で旅することができた、という。だけどその線路は沿岸のあらゆる場所で破壊されてしまった。釜石・大槌間ももはや鉄道では行けない。

そういうわけで、はじめは大槌までバスで行くことを考えていたが、昨年の仮設診療所でいっしょに働かせてもらった大槌町の地元開業医、道又先生が釜石まで迎えに来てくれるという。宿の手配もお願いしていたのだが、建築作業に携わる工事関係者が長期滞在をしているのでどこもいっぱいらしく、けっきょく道又先生のお姉さん宅に泊めていただけることになった。五人家族のぼくらのために、ずいぶん骨を折っていただいたことになる。なんともありがたいことだと思った。

道又先生は8人乗りのタクシーで駅に迎えてきていた。肩を抱き合い再会を喜ぶ。あの時のままの人なつっこい笑顔で、妻や子供たちに一人ひとり「やあ、よう来ました! 遠かったでしょう!」と声をかけていた。

大槌に向かう途中で何度かタクシーを止めつつ、釜石から大槌にいたる被災地域を案内してくれた。鵜住居、片岸・・・、山裾に広がるわずかな平地が、ことごとく被害に遭った。8ヶ月前、あんなにあったガレキがほとんど撤去され、建物の基礎だけが広がる平野となっていた。巨大な防波堤が積み木のようにひっくり返っている港、峡谷の奥の方まで押し流された大型トレーラー、壁も天井も屋根も引きはがされ鉄骨だけになった建物。その一つひとつに妻も子供たちも言葉を失っていたようだった。



釜石市内 
片岸のあたり
大槌にいた五週間、ぼくは毎日こんな風景を見て暮らしていたが、今また改めて見ると、やはり胸が苦しくなる。この風景の向こうで起こったできごとの大きさ重さを思うと、胸の奥がずんと重くなる。

沿岸の道路を北に上がりトンネルを抜け、大槌に入る。

街に入る十字路の脇にあのローソンが見える。その向かいのショッピングセンター・マストが再開している。駐車場が整地され、買い物客の車が駐まっている。空にそびえる看板も輝いていた。すごい。我がことのように嬉しい。


災害のあと、まっさきにオープンしたのが、このローソン 
大槌の人たちが待ちわびたマストの再開

しかし、十字路を折れ街へと下ると道路の両脇には災害のあとがまだしっかりと残っていた。ガレキはここでもほとんど撤去され、建物の基礎が道路脇に整然と並んでいる。津波のあと、ガレキに覆われた街を見て、道又先生は「見通しがよくなって分かったけど、海ってこんなに近かったんだ」と思ったのだとおっしゃっていた。だけどこうやってガレキすらない街を見ると、真っ平らな街の向こうには、さらにさらに海が近く見えると言う。


家屋の基礎だけが残る、津波の爪痕

城山からの眺め

津波に破壊された大量の自動車は、こうして一ヶ所に集められていた

車窓からの大槌町の眺め
東北の太平洋沿岸、リアス式海岸に点在する街はどこも、急峻な山間から海に開くわずかな平地に人を住まわせてきた。この風景を見て、そのことを悲しいくらいに実感する。

でも、こうも思える。さあ、また一から始めよう。その準備が整った。よそ者の身勝手な思いかもしれないけれど、どこから手を付ければいいのか途方に暮れていたあの頃からすれば、大槌はいまスタート地点にあると言えるんじゃないだろうか。走り出す支度のできたいま、重要なのはゴールをどこに設定するかだろう。

皮肉なことだけど、津波という災害が起きなければ、ぼくは岩手の沿岸に位置する小さな街、大槌にこれほど関わることはなかった。旅の多かったぼくにはいくつもの「第二の故郷」があるが、当初読み方さえ知らなかった「大槌(おおつち)」もまた、個人として深く関わり、おおぜいの人と知り合った大事な場所だ。でもぼくはこの街の本来の姿を何一つ知らない。この街の街並も、港や市場も、飯屋も居酒屋も、祭り神事も、どれも知らない。大槌のことを思えば思うほど、一度でいいからこの街の本当の姿を見ておきたかったと思う。

道又先生の仮設診療所、その隣の道又先生のお姉さん夫婦の営む薬局。ぼくらはその家の二階にその晩泊めていただくことになった。

その夜は、道又先生主催の宴。あの頃の懐かしい方々とおおぜい会うことになっていた。ああ、みんなどうしているだろう。

大槌への旅1:盛岡にて

今年の一月、ぼくはふたたび岩手県大槌町を訪ねた。昨年五月以来だから、約8ヶ月ぶりということになる。今回は単身ではなく、妻と子供たち三人をつれての訪問だった。

震災前に計画していた家族全員での久しぶりの日本滞在ホリデーで、妻の実家の銚子で年末年始を過ごし、そのあとは念願の北海道でのスキー。その北海道の帰りに列車を乗り継ぎ、盛岡を経由し釜石、大槌へと向かった。

盛岡の近くには、大槌の避難所で知り合った山田さんというおばあちゃん(と呼ぶにはまだちょっと若いけれど。ゴメンね山田さん)が生活されていて、ぼくは昨年五月に大槌を去ったあとも、何度か山田さんと手紙のやり取りをしていた。大槌の避難所から頼る方もない場所に移り、一人で生活をされている山田さんがどうされているのか、そのことが気がかりだった。盛岡を拠点としてるボランティア団体に、こういう方がこれこれの場所で暮らしているので定期的に様子を見てきてくれないかと、インターネットを通してお願いしたこともあった。しかし盛岡とオーストラリアの距離はいかんともしがたく、隔靴掻痒という表現の通りのもどかしさだった。

避難所で生活されていた時の山田さんは、ふいに押し寄せてくる不安や緊張で脈が早くなったり胸が苦しくなったりと、心と体のバランスの取れてない状態だった。自分でまったくコントロールできない「発作」が、早朝であろうと夜中であろうと起きるので、とても辛かったと思う。その避難所に24時間体制で仮設診療所を運営していたぼくらだったが、特別な検査ができるわけではなし、入院施設があるわけではなし、その場にある人的物的資源をなんとかしながら診療に当たっていた。もちろんぼくらに対応できないことは、釜石や宮古の二次三次救急施設と連絡を取り、搬送や入院といった手はずは取っていたが、それらの施設も震災と津波の影響でベッド数が限られていたわけで、基本的にはここの避難所の問題はぼくらで何とかしようと考えていた。

そんな状況だから、特別なことは山田さんにしてあげられなかった。山田さんだけでなく、その避難所にいたすべての方々に対してもそうだった。ぼくらができることは、「ここに診療所がある」ということを避難所の方々に知ってもらい、いくばくかの安心を届けるだけだったのかもしれない。

山田さんのその「発作」は、おそらく強度のストレスによるものだろうから、降圧剤などといった薬よりも、いわゆる安定剤や眠剤(それは震災前から山田さんが摂っていたものだ)と、「ここは安全な場所だ」「いつでも助けてくれる人たちがいる」ということを知ってもらうことがなにより大切だろうと思った。胸の苦しさを訴え、とんでもなく血圧が上がった状態でやって来た山田さんに、落ち着いた態度で対応し、脈をとり胸に聴診器を当て、ときにはガチガチに強ばった肩をマッサージして、「ああ、こんなに緊張していたら血圧も上がるよ」と笑って話しかけたりした。それだけで、血圧はスーッと下がり胸の苦しさも消えていった。

ぼくは大槌の城山体育館避難所のその仮設診療所に五週間いたので、避難されているほとんどの方と顔見知りになり、特に山田さんにとっては、ぼくは主治医みたいな存在だった。だから昨年五月にぼくが去るとき、山田さんは涙を浮かべながら「これからどうしたらいいの」と訴えていた。ほんとに申し訳なかった。これから仮設診療所は縮小され、いずれ撤退する。町の開業医の先生方や仮設病院が大槌の医療をふたたび担うという計画はすでに始動し、診療の移行はかなりうまくいっているように思える。しかし避難所の方々にとって、この避難所から24時間体制の診療所がなくなるということは大きな意味を持つ。

そういう背景があった。だからぼくは山田さんが気がかりだった。大槌を離れ住み慣れない場所で生活を始めたと知って、よけいに心配だった。手紙での山田さんは、相変わらず突然の不安に襲われていたようで、なかなか気の許せる医師に巡り会えないと嘆いていた。

盛岡のホテルのロビーで、ぼくは8ヶ月ぶりに山田さんに会った。山田さんは、会うなりぼくの両手をぎゅっと握り、ボロボロと涙をこぼした。小さな体のどこにその力があるのかというほど、強い力だった。返す言葉はなかった。地震、津波、避難所生活、体と心の不調、不慣れな場所での生活。ああ、苦しかっただろうなあ、たいへんだっただろうなあと、そんなことしか頭に浮かばない。

しばらくロビーのソファで二人きりで話をした。話を聞いてくれる医者が地元で見つかったこと、一人暮らしの山田さんを定期的に連れ出してくれるボランティアの人たちがいるということ、昔から好きだった折り紙をまた始めたこと、そして(もしかしたらぼくを安心させるためなのかもしれないけど)、たいへんなことは多いけれど元気で暮らしていると山田さんは言った。太平洋沿岸の大槌に比べ、内陸の盛岡は雪が多くてたいへんだと笑っていた。

そのあと、ぼくら家族と山田さんとでいっしょに夕食に出かけた。せっかく盛岡なんだからと、わんこそばの店を選んだ。15歳の息子のあまり芳しくないわんこそばの記録を冷やかしながら、みんなで楽しい時間を過ごした。山田さんはよく笑っていた。

山田さんからぼくらにお土産があった。折り紙だ。でも、折り鶴といったような小さなものではない。小さな折り紙を何百も組み合わせたすごい作品だ。いくつかいただいたが、圧巻だったのは白鳥と人形。何日もかかって折ったのだという。ぼくもびっくりしたが、娘たちもとても驚いていた。ぼくたちからは、北海道の美味しいもの詰め合わせ。一人暮らしの食卓にちょっとでも彩りが添えられたらと思って。

その夜はそれで別れた。翌朝、ぼくたちは釜石に向かうことになっていた。山田さんは駅までわざわざぼくらを見送りに来てくれた。最後の最後までいっしょにいたいのだと言って、なんとぼくらといっしょに電車に乗り、花巻駅まで山田さんは付き添った。花巻に行く途中、自分の今住んでいるというアパートを電車の窓の向こうに指さした。線路の脇にぽつんと建つ、鮮やかなレモン色の小さな2階建てのアパート。もう電車の音にも慣れました、と山田さんはまた笑った。

花巻駅のホームに立って手を振る山田さんが、急に小さく見えた。寂しそうに見えた。汽車はホームを離れ内陸から沿岸に向かって進み始める。ぼくらは旅を続け、山田さんはいつもの生活に戻る。

別れが辛いのなら、こうして会いに行くことはいいことなのだろうかと思ったりもする。会わなければ辛い別れもない。とくにこうして、妻も子供たちも連れて会いに行くことが、余計に山田さんを寂しくさせたんじゃないかと思ったりもする。祭りの後の寂しさは、よけいに悲しく心に染みる。

もちろん分かっている。辛くたって、会う喜びはそれを上まるものさ。その喜びが単調な生活の糧になり得るのさ。それはまったくそのとおりだ。でも、それでも思ってしまう。こうして会いに行ってほんとによかったのかなあ、と。

釜石が近づく。何度か車で走った道路の脇を線路が走る。見覚えのある街並が見えてきた。釜石製鉄所の煙突から真っ白な煙がもうもうと立ち上がっている。津波で破壊された製鉄所がふたたび稼働したのだ。すごい。


ああ、やっぱり時が経ったのだと実感した。


釜石新日鉄製鉄所から昇る煙