2011年4月16日土曜日

難しい

昨日、午後から一泊の休みを取った。
タイマグラの古い友人の家に泊めてもらい、風呂と食事をふるまってもらった。
十日ぶりの風呂。体も暖まり、心も暖まった。

そしてまた現場復帰。
醒めたというわけではないが、あれ、ちょっと違うぞと思う部分がある。

二週間ずっとここに詰めていて、ああした方がいいんじゃないか、こうするべきじゃないかとか、悩んだり動いたり反省したり頑張ったり。前へ前へ、そんな感じだった。
だけど、どうやらぼくの頭は少しカッカしていたのかもしれない。ずいぶんいろんなことに関わり、あっちに顔を出し、こっちに手を出し、だいぶ働いてきたと思っていた。

しかし、たった一泊だけど離れてみて再び戻ってみると、やってきたことのいくつかは自分の勇み足だったんじゃないかと感じたりする。眼下に広がるあまりの惨状と、過酷な避難所の現実を見続けて、それを何とかしなくてはといった焦りがあったんじゃないか。生活環境、医療環境、これらを向上させるためには、これこれが必要に違いないなどと・・・、うーん、それもやはり勇み足か。

ちょっと立ち止まろう。
主役は誰か。

「いる人」が主役であり、「去る人」は脇役だ。

ここは一発、仕切り直しといくべきか。
難しい。

友人が言っていた言葉を思い出す。

「熱い心と冷たいアタマ」ー A warm heart and a cool head.

何かを成し遂げるときに必要なものなのだと言っていた。反芻してみる。

2011年4月14日木曜日

大槌町、被害風景

 津波の被害とは、溺水だけでなく、この圧倒的な破壊力にあると思った。
砂浜で子供たちがいっしょうけんめい砂のお城を作る。
でも波のひと寄せでそれは一瞬で崩れ去る。
波の力とはそういうものなのだ。

 津波の直後、火災が町を襲った。

とんでもない高さを津波は包んだ。 

大槌町役場。
ここで約30人の職員が亡くなった。町長も含まれていた。

避難者に必要なもの

一言に避難所といっても、いろんな避難所がある。
ほんの少ししか見ていないのだけど、診察を受けに来る方たちに聞くと、たとえば職場の事務所に仮住まいをおいている人もいるし、お寺や老健施設、学校の教室や体育館も避難所となっている。廃校を利用して避難所としているところもある。もちろん、そういった避難所ではなくても、親類知人の家に身を寄せている人たちもいる。

ぼくがいまいるところは、大槌町の中央公民館。町営の体育館も付属していて、城山体育館とも呼ばれている。町の中心部(かつて繁華街だった場所だ)から見ると、丘の上にそびえる白い大きな建物だ。

東北の太平洋沿岸が地震と津波に襲われた3月11日の午後、この体育館に約600人の方が避難してきた。全員ずぶ濡れで、その濡れた格好のまま一夜を過ごしたという。しかも、津波によりプロパンガスのタンクからガスが漏れ、あっという間に火が噴き、それがガソリンスタンドや車から漏れたガソリンに引火した。その日はとても風が強かった。濁流に漂う家や木材が燃え、町のあちこちで同時に火事が起こった。

火の粉は城山体育館の丘にも飛び火した。体育館の回りでは山火事が起こり、人々はまったくなすすべもなく火の行方を見守るしかなかったのだという。

火事は翌日も続いた。

幸い、降ってきた雪のおかげもあって火は鎮まったらしいが、津波に破壊された町のあちこちに、まるで爆撃を受けたかのような黒い焦げ跡が残った。

地震と津波と火事。

大槌の避難所にいる方々は、誰もみな、一人の例外もなく、老いも若きもみんな、それを生き延びてきた人だ。

そういった人たちが、いまだに「避難所」で暮らさなければならない理由をぼくは知らない。この方たちには、修羅場を生き延びてきたということで、最大限の安息と慰安を与えらるべきだ。あの巨大な打撃のあとに、どうして今のような物理的精神的ストレスが加えられなければならないのか。

震災後、はや一ヶ月がたつ。

ぼくらはここで医療スタッフとして働いているが、ここに本当に必要なのは医療ではないような気がしている。

(画像を追加したのだけど、なんだかうまくいきません。後日アップロードします)

2011年4月9日土曜日

大槌町城山体育館避難所

さて、城山体育館避難所は大槌町を見下ろす丘の上にある。

4月9日現在の避難者は約270名。その方たちは、1階の体育館と2階の武道場に別れて生活している。広大なスペースに仕切りもなく、段ボール箱で区切っただけのエリアに布団を敷いて、それが一家族の生活の場所。子供も大人も老人も同じ。3月11日の地震・津波・火事から逃げ延びた人たちは、その日からずっとここで生活をしている。

大槌町は、この体育館のほかにもたくさんの避難所があり、合計32か所。そこに約2500人が生活している。現在の住民数がほぼ1万人なので、4人に一人が避難所にいるということになる。

確認されている死亡者数は600人近く。行方不明者は、ひと月が経つ今でも1000人以上。

城山体育館から大槌の町が一望できる。
ぼくはこの風景を毎日眺め、自分がここにいる理由と気持ちをリセットしている。

手前にあるのは町を見下ろす墓地。
真下にある寺の本堂は避難場所の一つだったが津波とそれに続いた火事で、
大勢の避難者が亡くなられたとのこと。

2011年4月8日金曜日

最大余震 震度6弱

昨晩11時半ごろ、大きな地震がありました。

ぼくにとっては生まれて初めての大きな揺れだったけど、こっちの人たちにとっては、あまりびっくりするようなことではないようで、慌てている人はほとんどいませんでした。揺れがおさまるやいなや避難所内の見回りをしましたが、避難してる人たちも、医療スタッフも、怪我なく皆元気です。

しかし、その後の停電は今日の午後まで続き、携帯も使えず。

3歩進んで2歩下がる、という感じです。それでも1歩は進んだわけですが。



本日、山奥の巡回診療に行ったさいの写真。巨石が道路の真ん中に。

2011年4月7日木曜日

岩手県大槌町

4月3日、日曜日に岩手に入った。
今回の津波被害が最も大きかった地域の一つ、大槌町に行く。

大槌町は沖縄県医師会の医療スタッフが震災後すぐ(3月16日)に入って支援を始めた場所で、ぼくもそのチームのメンバーに入っている。正式には4月16日から一週間というのが、ぼくの派遣期間なのだが、いくつか物資を届けるものがあったので、まずそこに立ち寄ったのだ。それに、そこにはぼくの古くからの友人、山代ドクターもいる。兄弟ともに親しい友人なので、ぼくは彼を山代兄と呼んでいる。

運転席以外まったく隙間なく物資を詰めたマツダMPVは、北上から遠野を抜けて、狭く曲がりくねった山道を上る。車体が沈み込むほどの重量なので、加速減速カーブ、すごく慎重だ。峠を越え、雪の残る細い山道を降りていく。谷川が見えてきて、民家がぽつりぽつりと回りに現れる。

と、突然、土砂にまみれたがれきが谷川に現れた。なんだなんだと思うまもなく、崩れた家や大破した車、無数のがれきが辺り一面に広がる。前触れなく、突然の光景だ。

もしなんの情報もなくこの光景を見たら、人はこれを津波の被害ではなく、空襲の後だと思うだろう。

徹底的に破壊されている。執念深く、ありとあらゆるものが破壊されている。

2011年4月1日金曜日

準備終了

本日は、朝より支援物資の受け取りと仕分け、それと買い出しを終え、おおかたの準備を整える。

本日の到着分は、沖縄北中城若松病院よりマスク・手袋・ナプキン等。それとパースのルーカスさんからは長野経由で大量のペットボトル水・米・生麺。島根の典子ちゃんからは大量の乾電池、ヘッドライト等。妻の両親と、義母の元教え子の由美子さんからは、クイックルワイパーなどのお掃除道具三セット。今日もたくさん集まりました。みなさんありがとう。

沖縄、島根、長野、東京、そして銚子の各地から集まった援助物資は、段ボール箱二十個を超えた。当初予定していたパジェロ一台には収まらないのは明らかだ。

そういうわけで、明日はパジェロとスズキ軽の二台で水戸の北にある友部に向かう。妻の両親も一緒に水戸まで来てくれることになった。友部で妻の弟の車に物資を乗せ替える。弟は8人乗りのファミリーカーを持っているのだが、「はじめさんは、車で寝泊まりするって言ってるんだろ、じゃあ、パジェロは狭すぎるよ」と言ってくれ、彼がその車を貸してくれることになったのだ。今日電話で聞いたところ、義弟は車の二列目のシートを取っ払い、三列目を完全に床に埋め込み、巨大なフラット空間を作ったのだと。「長さが二メートルあるから、はじめさん、思いっきり寝られるよ」と。

(ここで、いま余震あり。・・・すぐにおさまった。)

義弟のおかげで、ぼくはたくさんの物資を運ぶことができ、しかもキャンピングカーとしても利用できる。出発前はテントを用意していたのだが、それを使う必要はなくなった。食料もたくさん用意したので、避難所の方々の貴重なスペースにも食料にも手を付けずにすむ。よかった。

ちなみに義弟は水産食料品会社に勤めていて、被災地に向けて食糧品の提供もしたいと言ってくれている。そこのレトルトおでんは、以前ぼくは南極にも持って行ったことがあるのだが、原住民に大好評だった。

さて、大槌町に沖縄県医師会の医療チーム先陣隊として行っているドクター山代兄より、昨日注射用抗生剤の注文が入った。さっそく銚子市医師会に連絡して、手配できないかと相談していたのだが、銚子でも医薬品が十分に出回っていないということで手に入らぬと、本日連絡があった。しかし、最近のぼくはあきらめが悪いので、銚子の医薬品卸問屋に直接電話。残念ながら、注射薬は在庫においていないということであった。昨日電話していれば、千葉本店から手配できたものを・・・、と悔しがる。

しかしまだ負けぬ。今度は水戸の卸問屋に電話を入れる。二件目にかけたところに、なんと在庫あり。さっそく「沖縄県医師会」の名のもとに注文して、明日午前中に取りに行きますと伝言した。やはり、大事なことは人任せにせず、自分で動くべきなのだな。

と、思っていたもつかの間、一時間後にその問屋から電話あり。水戸保健所の「指導」により、たとえ医師であろうとも医師法に基づき直接販売はできないということになりましたと。もしどうしてもというのなら、沖縄県医師会から水戸市医師会に依頼をしてもらい、水戸市医師会から発注というふうにしてもらわないと困るのだと。

はあ? である。

いやいやいや、これは被災地で起きている出来事であり、そんな悠長なことは言ってられないのですよ。問題のポイントがぼくにはわかりません。都道府県をまたいでの医薬品の売買は震災後の臨時措置で認められているわけだし、もし所属団体が発注するべきだというのであれば、ぼくの所属する沖縄の病院長から直接発注という形で十分じゃないでしょうか。

対応しているおねえちゃんは、明らかに困っている。彼女は、個人としてぼくの(つまりは被災地の方々の)応援をしているのであるが、彼女の「上」が必要以上に問題を大きくしているのだ。

「わかりました、そのことをまた相談してみます」と彼女は言って電話を切った。なんとかぼくの要望に応えたいと明らかに彼女は思っている。

うわあ、しっかし、久しぶりに腹立ったなあ、と思っていたら、再びドクター山代兄からメール。「こっちの開業医さんのルートで明日手に入ることになりました!」と。ありゃりゃりゃりゃ、先ほどの彼女に慌てて電話して、すんません、たったいま解決しました! まあ、なにはともあれ、よかったではあるが。彼女もとても喜んでくれていた。

しかし、なんだろうなあ、ある目的を達するために手を尽くすということを、どうしてある種の「力のある」人たちはやってくれないんだろう。ぼくのような人間より保健所の人や医師会の人というのは、ずっと力がありネットワークも広いはずだ。「できない理由をさがす」より「できる方法を見つける」ことに力を注いでくれれば、世の中はもっと過ごしやすくならないか?

ましてや、いまは非常時なのだ。普通の人がおろおろとするこの時に、いわゆる専門家はよしとばかりにプロの視点でさまざまなルートを開拓し、困っている我々をすくい上げるべきではないのか? できるはずだ。やれば、できるはずだ。

今回のこの個人的プロジェクトの中で、まず第一に学んだことは、巨大な組織は動きが遅いということ。彼らはまず自分をプロテクトすることから発想と行動を始める。柔軟で素早く、そして時にびっくりするような集中力を示すことができるのは、個人の力だ。

だけど、残念なことに、その個人のびっくりするような力を巨大な組織は削いだり押しとどめたりするのだ。

さ、明日は早い。これでもう寝ます。
次ブログを更新できるのはいつになるか分かりません。
おやすみなさい。