2012年3月11日日曜日

大槌への旅3:点描

道又先生の案内で、この十ヶ月で変わった大槌の風景をさらにいろいろと案内してもらった。写真で紹介する。

道又医院には、沖縄の若松病院スタッフから送られた寄せ書きが張られていた。

一時期百人以上が寝起きしていた城山体育館。いまはもちろん誰もいない。

仮設診療所とつくし薬局が併設されていた城山体育館の遊戯室。いまはもう、卓球台がいくつか見えるだけ。

大きなプレハブ校舎。大槌町のほとんどの小中学校は一ヶ所に集められた。

弓道場の避難所で奮闘されていた植田先生も、仮設診療所をオープンして以前のスタッフと診療をはじめていた。相変わらずの元気さと明るさに圧倒される。
藤丸先生も診療所を開いていたが、検査中でお会いできず残念。

つくし薬局、仮設とはいえ立派だ。

大槌病院。これもまだ仮設。院長、副院長ともとても元気でした。

大槌町のあちこちに、プレハブの仮設店舗が見られた。
びっくりするくらい多種多様な店舗が隣り合っている。
店の明かり一つひとつが、人々の支えになっているに違いない。

大槌への旅2:変わりゆく風景



釜石駅、昼前。雪景色だった内陸とは打って変わって、沿岸は雪など全くないよく晴れた青空だった。

内陸から東に向かう鉄道は、釜石駅を終点とする。一年前まではそこから南北に線路が延び、東北沿岸を延々と列車で旅することができた、という。だけどその線路は沿岸のあらゆる場所で破壊されてしまった。釜石・大槌間ももはや鉄道では行けない。

そういうわけで、はじめは大槌までバスで行くことを考えていたが、昨年の仮設診療所でいっしょに働かせてもらった大槌町の地元開業医、道又先生が釜石まで迎えに来てくれるという。宿の手配もお願いしていたのだが、建築作業に携わる工事関係者が長期滞在をしているのでどこもいっぱいらしく、けっきょく道又先生のお姉さん宅に泊めていただけることになった。五人家族のぼくらのために、ずいぶん骨を折っていただいたことになる。なんともありがたいことだと思った。

道又先生は8人乗りのタクシーで駅に迎えてきていた。肩を抱き合い再会を喜ぶ。あの時のままの人なつっこい笑顔で、妻や子供たちに一人ひとり「やあ、よう来ました! 遠かったでしょう!」と声をかけていた。

大槌に向かう途中で何度かタクシーを止めつつ、釜石から大槌にいたる被災地域を案内してくれた。鵜住居、片岸・・・、山裾に広がるわずかな平地が、ことごとく被害に遭った。8ヶ月前、あんなにあったガレキがほとんど撤去され、建物の基礎だけが広がる平野となっていた。巨大な防波堤が積み木のようにひっくり返っている港、峡谷の奥の方まで押し流された大型トレーラー、壁も天井も屋根も引きはがされ鉄骨だけになった建物。その一つひとつに妻も子供たちも言葉を失っていたようだった。



釜石市内 
片岸のあたり
大槌にいた五週間、ぼくは毎日こんな風景を見て暮らしていたが、今また改めて見ると、やはり胸が苦しくなる。この風景の向こうで起こったできごとの大きさ重さを思うと、胸の奥がずんと重くなる。

沿岸の道路を北に上がりトンネルを抜け、大槌に入る。

街に入る十字路の脇にあのローソンが見える。その向かいのショッピングセンター・マストが再開している。駐車場が整地され、買い物客の車が駐まっている。空にそびえる看板も輝いていた。すごい。我がことのように嬉しい。


災害のあと、まっさきにオープンしたのが、このローソン 
大槌の人たちが待ちわびたマストの再開

しかし、十字路を折れ街へと下ると道路の両脇には災害のあとがまだしっかりと残っていた。ガレキはここでもほとんど撤去され、建物の基礎が道路脇に整然と並んでいる。津波のあと、ガレキに覆われた街を見て、道又先生は「見通しがよくなって分かったけど、海ってこんなに近かったんだ」と思ったのだとおっしゃっていた。だけどこうやってガレキすらない街を見ると、真っ平らな街の向こうには、さらにさらに海が近く見えると言う。


家屋の基礎だけが残る、津波の爪痕

城山からの眺め

津波に破壊された大量の自動車は、こうして一ヶ所に集められていた

車窓からの大槌町の眺め
東北の太平洋沿岸、リアス式海岸に点在する街はどこも、急峻な山間から海に開くわずかな平地に人を住まわせてきた。この風景を見て、そのことを悲しいくらいに実感する。

でも、こうも思える。さあ、また一から始めよう。その準備が整った。よそ者の身勝手な思いかもしれないけれど、どこから手を付ければいいのか途方に暮れていたあの頃からすれば、大槌はいまスタート地点にあると言えるんじゃないだろうか。走り出す支度のできたいま、重要なのはゴールをどこに設定するかだろう。

皮肉なことだけど、津波という災害が起きなければ、ぼくは岩手の沿岸に位置する小さな街、大槌にこれほど関わることはなかった。旅の多かったぼくにはいくつもの「第二の故郷」があるが、当初読み方さえ知らなかった「大槌(おおつち)」もまた、個人として深く関わり、おおぜいの人と知り合った大事な場所だ。でもぼくはこの街の本来の姿を何一つ知らない。この街の街並も、港や市場も、飯屋も居酒屋も、祭り神事も、どれも知らない。大槌のことを思えば思うほど、一度でいいからこの街の本当の姿を見ておきたかったと思う。

道又先生の仮設診療所、その隣の道又先生のお姉さん夫婦の営む薬局。ぼくらはその家の二階にその晩泊めていただくことになった。

その夜は、道又先生主催の宴。あの頃の懐かしい方々とおおぜい会うことになっていた。ああ、みんなどうしているだろう。

大槌への旅1:盛岡にて

今年の一月、ぼくはふたたび岩手県大槌町を訪ねた。昨年五月以来だから、約8ヶ月ぶりということになる。今回は単身ではなく、妻と子供たち三人をつれての訪問だった。

震災前に計画していた家族全員での久しぶりの日本滞在ホリデーで、妻の実家の銚子で年末年始を過ごし、そのあとは念願の北海道でのスキー。その北海道の帰りに列車を乗り継ぎ、盛岡を経由し釜石、大槌へと向かった。

盛岡の近くには、大槌の避難所で知り合った山田さんというおばあちゃん(と呼ぶにはまだちょっと若いけれど。ゴメンね山田さん)が生活されていて、ぼくは昨年五月に大槌を去ったあとも、何度か山田さんと手紙のやり取りをしていた。大槌の避難所から頼る方もない場所に移り、一人で生活をされている山田さんがどうされているのか、そのことが気がかりだった。盛岡を拠点としてるボランティア団体に、こういう方がこれこれの場所で暮らしているので定期的に様子を見てきてくれないかと、インターネットを通してお願いしたこともあった。しかし盛岡とオーストラリアの距離はいかんともしがたく、隔靴掻痒という表現の通りのもどかしさだった。

避難所で生活されていた時の山田さんは、ふいに押し寄せてくる不安や緊張で脈が早くなったり胸が苦しくなったりと、心と体のバランスの取れてない状態だった。自分でまったくコントロールできない「発作」が、早朝であろうと夜中であろうと起きるので、とても辛かったと思う。その避難所に24時間体制で仮設診療所を運営していたぼくらだったが、特別な検査ができるわけではなし、入院施設があるわけではなし、その場にある人的物的資源をなんとかしながら診療に当たっていた。もちろんぼくらに対応できないことは、釜石や宮古の二次三次救急施設と連絡を取り、搬送や入院といった手はずは取っていたが、それらの施設も震災と津波の影響でベッド数が限られていたわけで、基本的にはここの避難所の問題はぼくらで何とかしようと考えていた。

そんな状況だから、特別なことは山田さんにしてあげられなかった。山田さんだけでなく、その避難所にいたすべての方々に対してもそうだった。ぼくらができることは、「ここに診療所がある」ということを避難所の方々に知ってもらい、いくばくかの安心を届けるだけだったのかもしれない。

山田さんのその「発作」は、おそらく強度のストレスによるものだろうから、降圧剤などといった薬よりも、いわゆる安定剤や眠剤(それは震災前から山田さんが摂っていたものだ)と、「ここは安全な場所だ」「いつでも助けてくれる人たちがいる」ということを知ってもらうことがなにより大切だろうと思った。胸の苦しさを訴え、とんでもなく血圧が上がった状態でやって来た山田さんに、落ち着いた態度で対応し、脈をとり胸に聴診器を当て、ときにはガチガチに強ばった肩をマッサージして、「ああ、こんなに緊張していたら血圧も上がるよ」と笑って話しかけたりした。それだけで、血圧はスーッと下がり胸の苦しさも消えていった。

ぼくは大槌の城山体育館避難所のその仮設診療所に五週間いたので、避難されているほとんどの方と顔見知りになり、特に山田さんにとっては、ぼくは主治医みたいな存在だった。だから昨年五月にぼくが去るとき、山田さんは涙を浮かべながら「これからどうしたらいいの」と訴えていた。ほんとに申し訳なかった。これから仮設診療所は縮小され、いずれ撤退する。町の開業医の先生方や仮設病院が大槌の医療をふたたび担うという計画はすでに始動し、診療の移行はかなりうまくいっているように思える。しかし避難所の方々にとって、この避難所から24時間体制の診療所がなくなるということは大きな意味を持つ。

そういう背景があった。だからぼくは山田さんが気がかりだった。大槌を離れ住み慣れない場所で生活を始めたと知って、よけいに心配だった。手紙での山田さんは、相変わらず突然の不安に襲われていたようで、なかなか気の許せる医師に巡り会えないと嘆いていた。

盛岡のホテルのロビーで、ぼくは8ヶ月ぶりに山田さんに会った。山田さんは、会うなりぼくの両手をぎゅっと握り、ボロボロと涙をこぼした。小さな体のどこにその力があるのかというほど、強い力だった。返す言葉はなかった。地震、津波、避難所生活、体と心の不調、不慣れな場所での生活。ああ、苦しかっただろうなあ、たいへんだっただろうなあと、そんなことしか頭に浮かばない。

しばらくロビーのソファで二人きりで話をした。話を聞いてくれる医者が地元で見つかったこと、一人暮らしの山田さんを定期的に連れ出してくれるボランティアの人たちがいるということ、昔から好きだった折り紙をまた始めたこと、そして(もしかしたらぼくを安心させるためなのかもしれないけど)、たいへんなことは多いけれど元気で暮らしていると山田さんは言った。太平洋沿岸の大槌に比べ、内陸の盛岡は雪が多くてたいへんだと笑っていた。

そのあと、ぼくら家族と山田さんとでいっしょに夕食に出かけた。せっかく盛岡なんだからと、わんこそばの店を選んだ。15歳の息子のあまり芳しくないわんこそばの記録を冷やかしながら、みんなで楽しい時間を過ごした。山田さんはよく笑っていた。

山田さんからぼくらにお土産があった。折り紙だ。でも、折り鶴といったような小さなものではない。小さな折り紙を何百も組み合わせたすごい作品だ。いくつかいただいたが、圧巻だったのは白鳥と人形。何日もかかって折ったのだという。ぼくもびっくりしたが、娘たちもとても驚いていた。ぼくたちからは、北海道の美味しいもの詰め合わせ。一人暮らしの食卓にちょっとでも彩りが添えられたらと思って。

その夜はそれで別れた。翌朝、ぼくたちは釜石に向かうことになっていた。山田さんは駅までわざわざぼくらを見送りに来てくれた。最後の最後までいっしょにいたいのだと言って、なんとぼくらといっしょに電車に乗り、花巻駅まで山田さんは付き添った。花巻に行く途中、自分の今住んでいるというアパートを電車の窓の向こうに指さした。線路の脇にぽつんと建つ、鮮やかなレモン色の小さな2階建てのアパート。もう電車の音にも慣れました、と山田さんはまた笑った。

花巻駅のホームに立って手を振る山田さんが、急に小さく見えた。寂しそうに見えた。汽車はホームを離れ内陸から沿岸に向かって進み始める。ぼくらは旅を続け、山田さんはいつもの生活に戻る。

別れが辛いのなら、こうして会いに行くことはいいことなのだろうかと思ったりもする。会わなければ辛い別れもない。とくにこうして、妻も子供たちも連れて会いに行くことが、余計に山田さんを寂しくさせたんじゃないかと思ったりもする。祭りの後の寂しさは、よけいに悲しく心に染みる。

もちろん分かっている。辛くたって、会う喜びはそれを上まるものさ。その喜びが単調な生活の糧になり得るのさ。それはまったくそのとおりだ。でも、それでも思ってしまう。こうして会いに行ってほんとによかったのかなあ、と。

釜石が近づく。何度か車で走った道路の脇を線路が走る。見覚えのある街並が見えてきた。釜石製鉄所の煙突から真っ白な煙がもうもうと立ち上がっている。津波で破壊された製鉄所がふたたび稼働したのだ。すごい。


ああ、やっぱり時が経ったのだと実感した。


釜石新日鉄製鉄所から昇る煙

2011年9月11日日曜日

あれから10年、あれから半年

21世紀はSep.11から始まった。

未来の代名詞だった21世紀は、暴力と憎しみに満ちたスタートとなった。
報復が報復を生み、暴力が次の暴力を呼ぶ。憎しみの連鎖は途切れることがない。
憎しみの連鎖は断ち切るべきだと総論的に理想を説いても、「殺される側」に立つ人々の気持ちや感情が癒されない限り、それは無理だ。

じゃあ、国のレベルでそれは可能なのか。政治はそれを可能にしてくれるのか。
もちろん原理的には可能だと思う。でも実際は、国が、政治が、国民を煽動し暴力を増幅させてきた。

巨大なものはそう簡単に動かない。もはや、地面を這う蟻のような、海中に群れなす小魚のような、そういったものこそが時代を動かす力となっていくはずだ。

そして今日は、あのMarch.11から半年目の日でもある。

ぼくらはもう十分に気づいている。国は、政治は、人々を助けはしないことを。巨大な何か、それはたとえば大企業であったり、大新聞をはじめとする巨大マスコミであったり、それらも人々を本当に助けはしない。

いま人々の助けになっているのは、蟻のような小さな力の集まりだ。ささやかだけどたゆまない動きが作り出す力が、被災した人たち、被爆した人たちを支えている、支えようとしている。名を持たぬ小さな力が集まって、大きな出来事を生んでいる。

大きな力が操ってきた時代が、こうやって変革されていくのならば、21世紀は「未来」の代名詞としてふたたび明るい響きを持つことになろう。

諦めずに、溜息を吐かずに、小さくても正しいことを続けよう。
いつか必ずぼくらの力は実を結ぶ。

明るい未来はそのときにやってくる。

2011年8月11日木曜日

五ヶ月が経ち

早い。
ほんとに早い。

今日で五ヶ月だ。
でも、早いと感じているのは、ぼくが当事者でないからかもしれない。

あの日を経験し、あの日からの厳しい生活を毎日毎日経験している人たちにとっては、遅々として進まぬ日々なのかもしれない。

五ヶ月も経つのに・・・、という気持ちの方もきっと多いのだろう。

オーストラリアに戻ってきて、ぼくにできることは本当に限られてしまった。
それはとても歯がゆいことだ。

ここに戻ったいま、なんとかぼくに「できていること」は、

友人、知人、職場の仲間に現地の話をすること、
テレビ、新聞などのメディアの取材に応じること、
呼ばれればどこにでも行って話をすること、
大槌の人たちと手紙のやり取りをすること。

特に、手紙を書くということに時間をかけている。
たとえひと月に一度のやりとりだろうと、それが続く限り「大丈夫」のサインをやり取りしていることなのだと信じている。

オーストラリアの花や鳥や動物や岩の映ったポストカードに字をしたため、無事とどくことを祈りつつ送る。オーストラリアといえば美しいビーチなのだが、ぼくは青い海の映ったカードを彼の地の人に送れずにいる。

どうか大槌の方々に、東北の方々に、日本各地に避難されている方々に、安息と健康を。
「祈る」ことが、おそらくぼくにできる最大のことかもしれない。

2011年6月14日火曜日

大槌町からの手紙

今日、大槌町でいっしょに仕事をした地元の方から、沖縄県医師会に手紙が届いた。MLでぼくの方にも送られてきた。多くは割愛するが、その中の一節を書き出させていただく。

「想像もしない大きな災害ではありましたが、また人の力の尊さや強さもかみしめた、今回の出来事です。けっして失ったものばかりではなかったということを実感し、力づけられております。

復興には、まだまだ長い時がかかることと思いますが、少しずつ歩みをすすめる大槌町を、これからもお見守りくださいますようお願いいたします。」


心を打たれた。この方もまた、たくさんのものを失ったひとりだ。
人間とはなんて強くてなんて優しいいきものなんだろうと、あらためて実感した。
大したもんなんですね、人間って。

2011年6月1日水曜日

城山診療所、本日撤収


3月16日より城山体育館で診療を行ってきた沖縄県医師会が、今日5月31日をもって撤収した。

大槌での活動の様子はメーリングリストで頻繁に報告されていたので、支援を終えてオーストラリアに戻ってきたぼくにも、現地の様子は毎日伝わっていた。最近は写真の添付もあり、住み慣れた(実際、ぼくらはあの診療所に住んでいたわけで)あの診療所がだんだんと片付けられて行くさまを見ていると、ちょっと寂しい気持ちになった。本日回ってきた報告書の写真の一枚には、テーブルもイスも敷居に使っていた段ボールの板も、薬の棚も点滴の箱も、何もかもきれいに片付けられていた部屋が写っていた。こんなに広かったのか。




撤収に関しては、じつはだいぶ前からたくさんの方々と話し合いがもたれていて、その時期や方法が考えられてきた。撤収のひとつの大きな目安は、地元の医療機関へのバトンタッチが円滑にできるかどうかだ。その点に関して、すべての医療機関が津波で破壊された大槌町だったが、その医療機関の医師やスタッフの方々が、もうすでに仮設の診療所でそれぞれ診療を再開している。それは予想よりもだいぶ早い再開であり、地元の医療関係者の方々の熱意と苦労にはほんとうに頭が下がる。

患者さんの振り分けや引き継ぎもだいぶ進んだようだ。再開された診療所の情報もずいぶん前から避難所の方々に周知されている。撤収後は日赤の医師団が週に4回巡回診療に来てくれることにもなっている。

できるかぎりのことをしてきたとは言え、やはり城山避難所の住民の方々は、沖縄県医師会の撤収に関して不安であり心配をおぼえることだろう。

でもこの変化は、町が一歩前に進むために必要なものなのかもしれない。自立を支えるということも、「支援」の大きな目的のひとつだ。地元の医療機関が自立するのを助け、それを見届けたいま、撤収する。支援はもちろん続く。ただしそれは形を変え、方法を変える。

大槌町と深く関わったいま、沖縄県医師会は今後も様々な形で支援を続けるという。オーストラリアの端っこにいるぼくもまた関わり続ける。支援には終わりはない。

一緒に送られてきた別の写真には、大槌の町が写っていた。町に果てしなくあったガレキは、着実に片付けられている。そこに、新しい何かが芽生えていくように見えた。