今日、大槌町でいっしょに仕事をした地元の方から、沖縄県医師会に手紙が届いた。MLでぼくの方にも送られてきた。多くは割愛するが、その中の一節を書き出させていただく。
「想像もしない大きな災害ではありましたが、また人の力の尊さや強さもかみしめた、今回の出来事です。けっして失ったものばかりではなかったということを実感し、力づけられております。
復興には、まだまだ長い時がかかることと思いますが、少しずつ歩みをすすめる大槌町を、これからもお見守りくださいますようお願いいたします。」
心を打たれた。この方もまた、たくさんのものを失ったひとりだ。
人間とはなんて強くてなんて優しいいきものなんだろうと、あらためて実感した。
大したもんなんですね、人間って。
岩手県大槌町。2011年4月から5月初旬にかけて、被災地の医療支援で訪れました。個人プロジェクトで行動を始めたときのことから、現地からのレポートまで、さまざま書き綴ってきました。 タイトルはそのままで、そのあとからも不定期に書いています。地震と津波の災害からもう何年も経つというのに、被災地の状況はめざましい復興を遂げているとは言い難いようです。 これからも折に触れて東北、とくにぼくの関わってきた大槌町のことを書いていこうと思っています。 ちなみに「帰国」の意味は、僕自身が長らくオーストラリアに住んでいて、震災のときに日本に「帰国」したことに由来しています。現在もオーストラリアで生活しています。
2011年6月14日火曜日
2011年6月1日水曜日
城山診療所、本日撤収
3月16日より城山体育館で診療を行ってきた沖縄県医師会が、今日5月31日をもって撤収した。
大槌での活動の様子はメーリングリストで頻繁に報告されていたので、支援を終えてオーストラリアに戻ってきたぼくにも、現地の様子は毎日伝わっていた。最近は写真の添付もあり、住み慣れた(実際、ぼくらはあの診療所に住んでいたわけで)あの診療所がだんだんと片付けられて行くさまを見ていると、ちょっと寂しい気持ちになった。本日回ってきた報告書の写真の一枚には、テーブルもイスも敷居に使っていた段ボールの板も、薬の棚も点滴の箱も、何もかもきれいに片付けられていた部屋が写っていた。こんなに広かったのか。
撤収に関しては、じつはだいぶ前からたくさんの方々と話し合いがもたれていて、その時期や方法が考えられてきた。撤収のひとつの大きな目安は、地元の医療機関へのバトンタッチが円滑にできるかどうかだ。その点に関して、すべての医療機関が津波で破壊された大槌町だったが、その医療機関の医師やスタッフの方々が、もうすでに仮設の診療所でそれぞれ診療を再開している。それは予想よりもだいぶ早い再開であり、地元の医療関係者の方々の熱意と苦労にはほんとうに頭が下がる。
患者さんの振り分けや引き継ぎもだいぶ進んだようだ。再開された診療所の情報もずいぶん前から避難所の方々に周知されている。撤収後は日赤の医師団が週に4回巡回診療に来てくれることにもなっている。
できるかぎりのことをしてきたとは言え、やはり城山避難所の住民の方々は、沖縄県医師会の撤収に関して不安であり心配をおぼえることだろう。
でもこの変化は、町が一歩前に進むために必要なものなのかもしれない。自立を支えるということも、「支援」の大きな目的のひとつだ。地元の医療機関が自立するのを助け、それを見届けたいま、撤収する。支援はもちろん続く。ただしそれは形を変え、方法を変える。
大槌町と深く関わったいま、沖縄県医師会は今後も様々な形で支援を続けるという。オーストラリアの端っこにいるぼくもまた関わり続ける。支援には終わりはない。
一緒に送られてきた別の写真には、大槌の町が写っていた。町に果てしなくあったガレキは、着実に片付けられている。そこに、新しい何かが芽生えていくように見えた。
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