2015年3月11日水曜日

4年目に思うこと

4年前、2011年の4月、大槌の城山体育館の仮設診療所で働いていたとき。体育館の冷たい床の上で大勢の方々が何週間も生活せざるを得ないのを見ていた。住み家を失い、大切な人を失い、町を失い、持っていたものをすべて失った人たちを見て、ぼくは思った。

―――この方々こそ、いますぐもっとも安全で快適な場所で休んでもらうべきだ。

ところが現実は、衣食住の何も満たされず、プライバシーもなく、泣いたり悲しんだり、そんなことのできる場所のどこにもない生活。水や電気も長らく使えなかった。外の埃が避難所に舞い込んでくる。咳き込む人が日増しに多くなる。冷たい食事が続く。

いったいその状況はどれだけ続いたのか。5月上旬にぼくがそこを離れたとき、仮設住宅に避難所から移っていった人はまだ誰もいなかった。2ヶ月が経ってもそんな状態だった。

あの時、日本でもっとも辛いことに遭った人たちが、二ヶ月経っても体育館の冷たい床の上で生活していた。日本でもっとも休息と安らかな時間が必要とされていた人たちが、あんなにも長く辛い時間を過ごさざるを得なかった。

あの時ぼくはこう思った。

日本は、日本人は、いま何をさておいてもこの方々に最大の安息と休養を与えるように努力するべきだと。それが何よりも優先されるべきだと。何よりもまずその方々の身体と精神の回復が先だ。

その責任の主体は日本政府であるべきだ。

あれから4年が経った。

2年を目処の仮設住宅で暮らす方々が、4年経つ今も8万人以上おられる。住み家を失い、他所で避難生活を送っている人は今もなお22万人以上。

4年前に思ったことはいまでも同じだ。日本という国を考えるとき、北日本での未曾有の災害に遭った人たちがいまどうしているのかを知ることが、この国の進んでいる道を判断する大きな指標となる。

ぼくには正しい道を歩んでいるようにはどうしても思えない。

どうしても思えないのだ。

2015年1月12日月曜日

2015年、新年のあいさつ

皆様
遅くなりましたが、新年のあいさつを送ります。

昨年は念願のオーストラリアの医師免許(本免)を取ることができ、この異国の地で、晴れて(とりあえず)一人前の医師となったわけですが、だからといって個人的に大きなできごとがあったわけでもなく、大きな変化に見舞われたわけでもなく、仕事の上で大きくなった責任と忙しくなった日常業務に追い立てられたような一年でありました。ま、我ながら、ようガンバッタヨ、という感じです。
妻の理江は、毎日の家事をこなすことと三人の子供達の面倒を見つつ、陶芸にもせっせといそしんでいた一年であったようです。陶芸作品もギャラリーでずいぶん売れていたようです。ぼくのような素人目にも作品のレベルは確実に上がっているのが分かります。継続は力、好きこそものの上手なれ、です。
18歳の長男、春樹は昨年大学に合格したものの「ギャップ・イヤー」という制度を利用して、一年間の入学延期。昨年はバイトをしつつ毎日ずいぶんと楽しく過ごしていたようです。年末にはオーストラリア人の友人三人と共に日本旅行にでかけ、ずいぶんの珍道中をしてきたようです。いわゆる青春まっしぐらです。今年は大学生活が始まり、きっと洒落にならんくらい勉強せざるを得ないでしょう。
長女の花は16歳。今年は高校の最終学年で、受験の年。絵を描いて暮らして行きたいという漠然とした将来像を描いているものの、それを具体化するための助走にもいたっていない感じ。見てるこっちが焦るほど。でも、まわりが気を急いても仕方がない。腰を据えて見守るしかないのでしょうか。
末っ子の桂は10歳。彼女にとって今年は小学校の最終学年となります。文武両道を目指しているようですが、スプリンター、あるいはサッカー選手というのが、現段階での彼女の将来の夢。身体も心もまるで毎日成長しているかのよう。やせっぽっちにもかかわらず、この年齢で信じられないくらい食べます。

子供達は三者三様なれど、みんなとても元気。そして、50を過ぎて小さなガタに見舞われながらも、妻もぼくもそれなりに元気であります。

さて、家の外のこと、社会的なこと。つまり、世界でのできごと、オーストラリアでのできごと。日本でのできごと、そして我がふるさと沖縄でのできごと。

あまりにたくさんのできごとがあり、あまりにたくさんの語られていることがある。

この世の中は、年を追うごとにますます息苦しくなっているように思えます。特に、弱い立場のものに対して、社会は不寛容になっています。正義という名のもとに、人々は集団で攻撃を仕掛けることだって起きている。正義が人の尊厳や命をないがしろにすることが、最近特に増えているように思う。

と同時に、たくさんの「正しいこと」に対してコミットメントを求められるようになってきたのも、ここ最近のこと。たくさんの「許せないこと」が明らかになり、それに対して声を上げないことを許さないような、もう一方の社会。FBを始めとするSNSの発達に応じて、その傾向が進んできたように感じます。

何が自分にとって大事なことなのか。生きて行く上での優先順位は何なのか。立ち止まってよく考えてたり感じたりするのに時間が必要です。声高な正義や正しさといったものは、小さな自分が何かを考えようとするときにノイズとなることだってあります。自分の生きている世界はどうなっているのか、自分が生きて行きたい世界はどういう世界なのか。自分はその中で何にコミットメントしていきたいのか。そういう問いをきちんと立てて、静かな時間の中で考えたり感じたりしたい。

そういう時をもっと持とう。
それは次に行動につながる。
その行動が、自分のほんとうのコミットメント。

最後に、最近心に触れた言葉を紹介して終わります。
どうか皆さんにとっても、実りある一年となりますよう。
苦しんでいる人達に癒しが、悲しんでいる人達に安らぎが訪れますように。



I do my thing and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
You are you, and I am I,
and if by chance we find each other, it's beautiful.
If not, it can't be helped.
(Fritz Perls, "Gestalt Therapy Verbatim", 1969)

わたしはわたしのことをする。あなたはあなたのことをする。
わたしはあなたの期待に応えるためにこの世にいるわけじゃない。
それはあなたもおなじ。わたしの期待に応えるために生きているわけじゃない。
そう。あなたはあなた。わたしはわたし。
でももし、なにかのきっかけでおたがいが知りあえたら、それはとてもすばらしいこと。出会えなかったとしても、それはそれでしかたのないこと。
(フリッツ・パールズ、ゲシュタルト療法の言葉、1969年)