2011年4月30日土曜日

希望の灯火



ぼくはローソン派になることにしました。

大槌町は津波ですべての医療施設が壊滅したのですが、じつはコンビニとスーパーもすべて失われてしまったのでした。小鎚川沿いにあるショッピングセンターは完全にやられ、そのすぐ向かいにあるコンビニ「ローソン」も建物はかろうじて残ってはいたものの、そのまわりは瓦礫だらけ。青と白の外装が、無残に散っていました。まあ、取り壊されるのは時間の問題だろうと。

ところが、昨日、そのローソンが完全復活オープン!

床を張り替えガラスを入れ直し、店内の冷蔵庫からなにからすべて入れ替えて、なんとなんと再びオープン。津波を受け瓦礫の散っていたその場所に、ローソンの青い明かりが灯っているのを見たときは、なんだかジンときました。

夕方の釜石での医療災害対策本部のミーティングの帰り、一緒に車に乗っていた皆で、そのローソンを見に行ってみました。駐車場は車でいっぱい。町の人々が嬉しそうに店に入っていく。再オープンとはいえ、中はまだ不十分だろうと思っていたら、なんと完璧でした。冷蔵庫にはプリンもビールも冷えていて、レジの横にはおでんまである!

ぼくらは口々に「おー、すごい!」を連発。
町の人たちもその話で持ちきり。

町に店の明かりが消えてひと月半。その最初の明かりがその青い灯火なのです。
町に灯るローソンの明かりが、ぼくには希望の光に見えました。

よくやった、ローソン!
ありがとう、ローソン!

2011年4月29日金曜日

一時移住を考える

避難者への一時移住の働きかけが、たくさんの自治体からなされている。沖縄県もその一つだ。大槌町でいえば、車で2,3時間で行ける花巻も一時移住についてかなり積極的に広報されている。先日一泊してきた大沢温泉にも、90名の避難者が大槌から来て生活をしているということだった。それを聞いて、ぼくはとても嬉しかった。被災地から一時的に離れ、壁に仕切られた部屋の中でプライベートを守りながら、家族で生活する。そういう「当たり前」の生活が、たとえ90人とはいえきちんとなされていることを知って、こころからほっとした。


一時移住の必要性と重要性は、いろんなところでいろんな人たちが話している。


基本的にぼくは一時移住に賛成だ。避難所の生活を続けることは、肉体的精神的にかなりのストレスであり、健康を直におびやかしている。できることなら、ここにいる避難者を全員一時移住の地に連れて行きたい。そこでゆっくりと休息を取り、再生に向けて新たに力を溜めてもらいたいと思う。ほんとにそう思う。


だけど、ひと月この避難所にいて、それがとても難しいことを実感している。


親が子供が、行方不明のままだという人がいる。見つからないままここを去ることはできない。たとえひと月だろうと、ここを離れて心が安まるとは思えない。それどころか、きっと余計に苦しむだろうと。


家族そろって一時避難をしたいのだけど、父親あるいは母親が仕事を持っている。運良く仕事場が被災を免れたのだ。その父や母を置いて、残りが一時移住をすることはできない。


同じように、家族内で意見が割れたとき、半分が移住し、半分が残るなんていうことはできない。それでは家族が分裂してしまうという。


ある老女がたとえ一人だろうと一時移住をしたいと思った。家族にそれを持ちかけた。残念ながら、その方は家族の反対にあい、移住を諦めた。反対の理由はわからない。


とにかく、土地から離れることはできないという人もいる。


たとえ短期移住だろうと、ここを離れるとさまざまな情報が届かないかという心配がある。仮設住宅の抽選に影響が出るんじゃないかと思う人もいる。


短期移住から帰ってきたとき、「村八分」のような扱いを受けるんじゃないかと危惧する人もいる。


さまざまな理由がある。思いも寄らないことが理由になっていることもある。


そういったことが分かってからは、短期移住こそがいまなされることだとは言えなくなった。移住は、さまざまなオプションの中の一つの選択肢であり、それを選ぶことができる環境の方だけが参加すればいいのだと思うようになった。絶対これがいいのだと外部の人が主張して、誘拐まがいのことはしてはいけない。


そうなると、ぼくら医療従事者が考えなければならないことは何か?


避難所の環境整備だ。医療の点から見た、健康と安全の確保だ。けっして快適とは言えない避難所の生活を、いかに少しでも安全にしてくのか。避難者の健康を、いかに向上させるのか。それらが、避難所内の診療所をあずかる医療従事者の仕事じゃないかと思っている。


付け加えていうならば、いまでもぼくは、移住の必要性と重要性を患者さんや避難者の方々に折りに付けて説いてはいる。でも決断は、こちら側ではなく向こう側にある。

四十九日




昨日、午前中診察に見えていた三浦おばあさんが、「今日は娘の四十九日だから、午後からお寺さんに行ってきます」と言っていた。いつものにこやかな笑顔ではあったが、それだけにいっそう辛く感じた。
4月28日、 震災と津波のあの日から49日目に当たる。
ということは、三浦おばあさんの娘さんだけでなく、大槌町だけでも700人近くの方が四十九日を迎えたというわけだ。行方不明者を含めると2000人近くになる。
ぼくらはあの大災害からひと月目とか100日目とか言うけれど、亡くなられた人を中心に考えると、初七日とか四十九日といった数字の方がさらに意味を持つ。地震と津波は確かにとんでもない出来事だっただけど、極端に言えば、地震や津波がどうこうというよりも、亡くなられた人たち、生き延びた人たちが出来事の主役であり、すべての文脈はそこを中心にして語られるべきなんだと思う。
前にも書いたと思うけど、あの3月11日を生き延びた人たちは、その直後から暖かく守られた快適な環境で生活を送るべきだった。冷たくて怖くて悲しくて辛い日を過ごした人たちが、そのあとに避難所の生活をひと月も二月も送るべきではない。決してそうさせるべきではない。国は、国民は、最大限の努力をしてその人たちをなんとしてもすくい上げて守らなくてはいけないと思う。
4月28日、城山体育館のまわりの桜は満開だ。折からの山風が、桜の花びらを眼下の町に降らせていた。

2011年4月27日水曜日

城山体育館(大槌中央公民館)避難所近況

大槌町城山体育館避難所
約180人がここにいて、2階の武道場に100人、
3階の大会議室に40人ほどが避難生活を送っている。


4月3日にここ大槌町に入り、はや4週目になる。ここに来る前は、被災地の救護所がいったいどういう状況なのかほんとに分からなかった。野戦病院のような状況なのだろうかと思ってさえいた。

ぼくは自分の面倒は自分で見るというスタンスで準備をしてきたので、義弟から借りたマツダMPVの中で一ヶ月半生活ができるようしていた。どんなことが待っているのか分からなかったからだ。きっと寝るところもないに違いないと。

ところが、野戦病院のような時期はとうに終わっていて、不十分な施設の中でのやや騒然とした外来診療といった感じだった。最初の一、二週間で、本当の救急医療の時期は終わっていたのだという。薬がまったく足りないとか、重症患者を運ぶ手立てがないとか、それ以前に医療従事者があまりにも少ないとか、そういう時期はすでに過ぎていた。

救護室と書かれたドア。中会議室といった感じの部屋を、折りたたんだ卓球台と段ボールとで仕切りを作り、救護室、保健師のスペース、薬剤師のスペースに分けてある。奥に小さな休憩所がもうけられ、そこでお湯を沸かしたり、カップラーメンやレトルトカレーを食す。夜は部屋のテーブルとイスを片付け、床の上にマットを敷いて寝袋に入る。多いときで10人、少ないときでその半分。医師と看護師と事務員の共同生活。朝9時から夕方5時までの診療時間とうたってはいるけれど、基本的には24時間体制。夜の8時には医師全員で一階の体育館や二階の武道所を訪れ、避難している人たちを見て回る。一人一人に声をかけ、顔色を見て歩く。

そういう風な毎日。それは基本的にいまでも変わらない。

しかし徐々にだけど変わってきていることもある。

まず、患者さんの疾病構造が変わってきた。
当初は、夜の8時のラウンドで発見する異常も少なくなかった。東北の人は我慢強いというけど、ほんとにその通りで、食欲もなく水分もとれていない老人が、ただ迷惑をかけたくないということですぐそばの救護室にも行かずに布団の中にいる。変だなと声をかけると、熱がありかなりの脱水。何らかの感染症から来る敗血症も疑われる。即、近隣の宮古病院に救急搬送ということも珍しくなかった。野戦病院のレベルは過ぎたとはいえ、緊急度の高い患者さんは幾人かいたものだ。

いまはそういった患者さんはいない。8時のラウンドが功を奏したのも確かだと思うが、周囲の方たちがきちんと目をかけているのが大きいと思う。自分と家族のことでいっぱいいっぱいだった時期を超え、周りの人のことを気にかけることができるようになった、ということなのだと思う。

そういった時期のあと、しつこい咳と、喉の痛みを訴える人が増えた。津波のあとの瓦礫から巻き起こる細かいダストが刺激となって、人々の喉と気管を痛めていたのだ。ちょうど杉花粉が大量に飛び散る頃だったので、花粉症とも重なり、診療所を訪れる患者さんのほとんどが、しつこい咳になやまされていた。ラウンドに行くと、広い体育館のあちこちで咳き込む音が聞こえたものだ。咳のせいで夜眠れないという人もたくさんいた。しかしそれも、住民みんなで行った大清掃と、館内土足禁止措置、空気清浄機の大量導入、加湿器、マスク着用の励行、うがい、そういったもので徐々に減っていった。いまもまだしつこく続いている人もいるけれど、当初に比べるとだいぶましだ。

少しずつ物事は改善しているように見える。

だけど、残念ながらそう単純ではない。現在避難所が抱えている問題は、脱水状態とかしつこい咳といったような「目に見える」ものに比べて、遙かに深刻だと思う。

マスコミでもあちこちで取り上げられているが、食事の問題はとても大きい。ここ城山避難所は、基本的に一日二食だ。正確に言えば、ボランティアグループが炊き出しをしない限り、一日二食だ。たとえば、ある日の朝のメニューは、おにぎり、菓子パン、フルーツゼリーとチョコレート。昼の分になるように多めにおにぎりやパンが渡されはするが、これはすべて炭水化物だ。さらにいえば、ただの糖分だ。夕に配られるのも、たとえばおにぎりと缶詰といった感じ。温かい味噌汁が付けば、それはごちそうのたぐい。サラダなどほとんどない。最近はお弁当方式で品数も増えてきたが、いわゆる家庭でふだん食べているような食事内容にはほど遠い。

炭水化物以外の必須栄養素が、まったく足りていない。筋肉量を維持し、代謝の根幹にかかわるタンパク質が、まず絶対的に足りない。新鮮な野菜も(調理済みも少ないのだが)ほとんどないので、ビタミン・ミネラルが間違いなく不足している。脂肪酸も、EPAといった不飽和脂肪酸がほとんどなく、缶詰や保存食に含まれるのは悪質な飽和脂肪酸ばかり。

栄養不足は、基礎体力を低下させ免疫力を低下させる。こんな栄養状態で、万が一インフルエンザでも発生しようものなら、抵抗力の低下から重症化する人は通常よりも多くなるに違いない。

運動不足も大きな問題だ。他の避難所はそうでないかもしれないが、ここ城山体育館避難所は、散歩をする場所が限られている。高台にある体育館の脇にはちゃんとした道路があって、そこは桜の並ぶなかなかいい散歩道なのだが、避難者の方々は、そこから見える町の惨状に耐えられないのだという。そう言う人に外の散歩を勧めることができるのか。こういったこともそうなのだが、他所からやって来たぼくらには思いも寄らない話が、ここにはいくつもある。館内の散歩をすすめても、スペースに限りがあり、うまくいかない。そもそも避難所の中で布団にうずくまって気力の衰えている老人を、どうやって積極的に動かすかという方法がぼくらにはわからない。マンパワーの不足とも言える。

もう一つは、こころの健康。不眠を訴える人が増えている。体育館の床の上で、たとえばわずか3.4畳ほどのスペースに一家族が生活する、というような状態。仕切りもなく、わずかな着替えもなにもかもが段ボール箱に納められ、食事もそこですまされる。200人近い人たちがそんな風に生活し、夜も「同じ屋根」の下で寝る。ひと月以上が経ち、慣れてきたと人々はいうけれど、意識下でたいへんなストレスを受け続けているのは想像に難くない。そのストレスが不眠や不安、あるいは身体症状を呈する神経症をもたらすのは、むしろ「正常な反応」とも言える。

沖縄県医師会が詰めている城山診療所にも、沖縄県から精神科医が一週間来られていて、積極的に不眠・不安を訴える患者さんを診てもらっていたが、むろん一週間だけの問題ではないわけで、この地域にも様々な都道府県からやって来た「こころのケア」チームが活躍している。「世界の医師団」というボランティアグループもメンタルケアも含めて活躍している。

被災地の医療は、身体問題よりもむしろ心の問題にシフトしてきていると言えると思う。身体問題も、急性疾患よりもより慢性的な問題に重きが置かれる時期だ。

栄養不足、運動不足、こころの問題、それらがもたらすものは、徐々に進行する免疫力の低下と精神疾患の増加だ。表向き落ち着いてきたように見える避難所の風景だが、その深層ではとても深刻なことが進行している。

そのことは、ぼくら城山診療所のメンバーや沖縄県医師会の事務局だけでなく、被災地域のあらゆる医療スタッフの共通認識となっている。問題は、その解決法が医療スタッフの努力だけでは成り立たないと言うことだ。それは広く行政の問題であり、避難所の自治の問題でもある。ぼくらの活動と提言がどれだけ実を結ぶのか分からないが、諦めることなくしつこくやっていくしかないと思っている。

先はまだまだ長い。
表面だけを見ていては大事なことを見逃してしまう。

2011年4月23日土曜日

「架け橋」と「祈り」

ぼくを東北の被災地に快く送り出してくれた妻だが、彼女もまた現地(西オーストラリア・バンバリー)で、被災地の支援のために奮闘している。

妻はいま、ぼくらの共通の友人であるフルーティストの奈緒子さんや現地の他のミュージシャンを巻き込んでチャリティー・コンサートを企画している。コンサートのタイトルは「KA KE HA SHI」。会場はバンバリーの街の中央にそびえる美しいカソリック教会「St. Patrick's Cathedral」。ぼくが長々と説明するよりも、妻の作った案内文をそのまま紹介したい。






この教会は数年前の竜巻で修復不能のダメージを受けてしまい、泣く泣く取り崩した古い良い教会だったんです。



その頃私達はこの教会の近くに住んでおり、その一部始終を目撃していました。
町を見下ろす一等地ではあるけれど、駐車場が狭かったり他にも問題があったのか、郊外に移転するような話も出ていました… ところがしばらくして教会再建が始まり、そしてついに1ヶ月ほど前にリオープンしたんです。
この教会は私にとって、まさに再生のシンボルなんです。
同じ天災によって取り崩しを余儀なくされた教会、地震と津波で深く傷付いた人々、私は両者に深い結びつきを感じ、コンサートを開くならここだ!と決めていました。
カソリック教会はガードが堅く、三度断られましたが諦めずに説得を続けた結果、ついにコンサート開催こぎ着けました。
出演者の一人の提案でドア・チケットを使ってラッフルをしようという事になり、地元の小売り店に商品の寄付を募ったところ、思いがけず良い反応があったりして本人かなりジーンときています。
出演者はプロでも企画者がド素人なのですが、このコンサートはきっと良いものになります。
パースからは遠いですが、お時間のある方はどうぞおいで下さい。
お目に掛かれるといいな、と思っています。



5月1日、西オーストラリア・バンバリー、このコンサートはとてもいいものになるはずです。ぼくもあの教会は復興のシンボルだと思っていました。妻はとても根気よく働きかけ、ようやく実現にこぎ着けました。わが妻ながらたいしたもんだと思います。

その原動力は、「何かしたい!」という素朴で力強い気持ちだけなんだと思います。


さて、そのコンサートから5日後の5月6日、キモノ・フルーティストの奈緒子さんが、今度は西オーストラリア大学で単独コンサートをします。これも東北・北関東の被災者の方々へのチャリティーコンサートです。

彼女は芸名を「桃千代」といいます。いや、芸名というよりもリングネームと読んでもいいと思う。それくらい彼女は「桃千代」であることに体を張っています。気合いが入っています。で、そのコンサートのタイトルが「祈り Prayer」。

ここもぼくが長々と説明するよりは、「桃千代」のホームページをご覧ください。ブログもやってます。友人だからというひいき目抜きに、彼女のフルートは素朴で奥深く、すばらしい。

妻の企画しているコンサート、奈緒子さんの単独コンサート、どれもほんとうに聴きに行きたい。でも彼女らは彼女らの場所でがんばり、ぼくはここでもうしばらくがんばります。



3時5分





先日がれきと化した大槌の町を歩いてきた。

がれきと一口に言うが、近くによって目を寄せると、がれきの破片ひとつひとつに名前がある。

いまあなたがいる場所の回りを見て欲しい。
もしあなたがいま暖かい部屋でパソコンに向かっているのなら、そこにはテーブルがあるだろうし、その引き出しの中にはペンがあり、ハサミがあり、物差しがあるだろう。テーブルの上には、ちいさなマスコットやちょっとした小銭や友達から来た手紙や買い物リストや、あるいは家族の写真が飾られているかもしれない。

そのすべてが、このがれきの中にある。パソコンそのものも(破片となって)ある。

台所にあるもの、居間にあるもの、玄関にあるもの、タンスの中身、なにもかも。車があり、自転車があり、オートバイがあり、バスがあり、トラックがあり、そして家そのものも破片となってあらゆるものと混在している。

その、かつて名前のあった破片の中を歩いていた。

時計を見つけた。居間によく見る置き時計だ。

指し示す時刻は3時5分。

地震があったのが2時46分頃といわれているので、津波はその20分後に大槌を襲ったのだろう。

Every tiny single piece of the wreckage has its memory.
がれきの中のどんなに小さな破片にも記憶がある。

大量の記憶に埋め尽くされて、大槌の町は今日は雨に濡れている。

2011年4月22日金曜日

不公平

昨日は、午後から休みをもらい、花巻で一泊してきた。温泉に入り畳の上でゆっくりと寝た。そしてまた昼には大槌に戻り、救護所に入る。

釜石から大槌に至る雨に煙る帰りの道すがら、津波に呑まれた集落をいくつも見る。何度見ても、なんというか、自分の半世紀の人生の中での経験にまったく収まらない風景に、ぼくの頭脳と心は戸惑ってしまう。

温泉宿で過ごしたたった一泊が、とてつもなく贅沢に思える。大槌のあの避難所の方たちの生活を見ているだけに、自分の体調を整えるためにとった休憩すら、後ろめたく感じてしまう。いやそうではないと分かっているのだけど、そう感じてしまう。

大槌の避難所にしばらくいると、ここが世界の中心のように感じる。がれきに化した町。体育館に並ぶ無数の布団。冷たい床。あちこちで聞こえる咳。その他の世界(たとえば花巻の温泉)の安寧さの方が、ほんとうは「あたりまえ」のはずなのに、そこに住む人たちの心やすい生活に対して、心のどこかで不公平を覚えてしまう。そこに身を置いて安らかな夜を過ごした自分自身に対して、オレは不公平なことをしたんじゃないかと思ってしまう。

それは違う違う。

心やすい生活がほんとうだ。避難所にいる人たちも、心やすい生活に一日も早く戻らなくてはならない。それを助けるためにおおぜいの人々はここに来たのであり、それを実現するためにここに住み続けてきた人たちは今日も黙々と働いているのだ。

不公平なのは、ここにいる人たちの境遇のほうだ。ある日突然波に呑まれ、避難所生活を送らざるを得なくなった。それこそが不公平な出来事だ。

おそらく、これから先の自分の人生の中で、ここで見聞きしたことは自分自身の中心になるだろうと思う。生きるということは、先の分からない出来事の積み重ねであり、道理の通らない不公平なことがいつでも起こりえることであり、その不公平さをあるときはどうあっても引き受けざるを得ないのだということを。

2011年4月20日水曜日

基本的事実

避難所での診療所でしばらく働いていると、だんだんとここに住んでいる人たちと顔見知りになる。ぼくら医療班は診療所に寝泊まりしていて、基本的に住民と同じような生活をしている。トイレも洗面所も共同、もちろん風呂はないし、食事も限られている。そんなふうだから、余計に住民と親しくなり、時には軽口をたたき合ったりもする。まるでコミュニティーの同胞のような感覚になることもある。要するに「仲間」のような感覚だ。

でも、忘れてはいけない基本的事実がある。

避難所にいる人は、全員が、ただ一人の例外なく、避難してきた人だ。
あの地震、あの津波、あの火災、それから逃れてきた人たちだ。
家を失い、帰るところのない人たちだ。
大切な人を失った人たちだ。

あの津波が、どれだけ恐ろしかったか、どれだけ怖かったか、どれだけひどかったか、いろんな人から聞かされた。押し寄せるがれき、襲いかかってくる波、黒い波の上で燃え上がる炎、びしょ濡れで過ごしたその夜の凍える寒さ、家族を見失った狂わんばかりの悲しさ、そして混乱。我が町が消えてしまうのを目の当たりにした人々。

老人も、大人たちも、高校生も中学生も小学生も、年端のゆかない子供たちも、赤ん坊も、この避難所にいる人たちは、全員、それを生き延びてきた。そんな夜を過ごしてきた。

それは忘れてはいけない、基本的事実だと思う。

支援しに来た人たちは、もちろんぼくも含めて、彼らの中の一人ではない。あの体験を生き延びた一人ではない。ぼくらは、「ここを去る人」なのだ。

それもまた基本的事実だ。

問題が複雑に感じられるとき、その基本的事実に立ち返ると、解決への道筋が見えてくるんじゃないか思う。失敗して振り返り、ああそうだったと反省することもまだ多いけれど。

2011年4月19日火曜日

ボランティアがいる

大槌町城山体育館避難所にも、おおぜいボランティアがいる。
マッサージや足湯などのためにやってくる不定期の方々もおおぜいいるが、ここに腰を据えてがんばっているグループもいる。

パレスチナ 子供のキャンペーン」という団体は、元来パレスチナの子供たちに対する支援活動をしていたのだけど、震災を受けた東北地方にまで活動の手を伸ばしている。避難所の子供たちの面倒を見たり(一緒に遊んだり、宿題を見てやったり)、津波で破壊された町から写真やアルバムを見つけてきては、それを綺麗にして持ち主に返す活動をしたり、あるいは何百人分という炊き出しを手配してくれたり、そのほかにも実に細々とした活動をしている。行政の手と目が届かないところを、とてもうまくカバーしていると思う。他のボランティア組織との連携も強いようだ。それに、なんといっても動きが早い! 

もう一つここ大槌の城山でがんばっているのが、国際NGO 「Life Investigation Agency (LIA)」。彼らの活動はちょっと変わっていて、要するに「人間以外の動物の支援」を行っているのである。迷子の犬や猫を見つけて、その飼い主、あるいは里親を探す。避難所に入れられなかったペットの面倒を見る。怪我をした飼い主の代わりに、犬の散歩をしてあげる。地味だけど、その当事者や当事動物たちにとっては、本当にありがたい活動だと思う。じつは、彼らの活動はもっと広範囲に及ぶもので、実験動物に関することや絶滅危惧種の保護政策、そういったことを国際的な規模で行っている。見た目は地味だが、活動は国際的なのだ。


岩手県生まれの、地元に即したボランティアグループ「岩手結っこ」も活動的なボランティア団体の一つ。これはなかなか強力な団体で、地元という地の利を生かして、質・量ともすばらしい活動をしてる。大槌町は花巻市圏が面倒を見るということになっていて、短期移住者の受け入れを初め、物的人的支援を早い時期から行っている。精神面のサポートも充実している。


花巻よりもより近い遠野市にもボランティア組織がある。「遠野まごころネット」だ。ここも地の利を生かしてどんどん人を送り込んできている。先日は、大型のバス二台からたくさんの人が降りてきて、被災した家屋の片付けや泥出しをしていたところに出くわした。「遠野まごころネット」のジャンパーを着た人たちが黙々と働いているあのシーンを見たら、被災された人たちはきっとすごく力強く思うだろう。


ひとりNPOでやってきたぼくが現在働いているこの仮診療所も、じつはボランティアによって運営されている。「沖縄県医師会」である。震災後わずか五日目にして第一陣が乗り込み、翌3月17日にはこの城山体育館に救護室をオープンした。それから一月以上、沖縄県医師会は常時複数の医師と看護師・事務を送り続けているのであるが、この活動はまったくのボランティア活動だ。本部の方では、大槌の医療体制が整うまで支援続けるぞ、という意気込みらしいから、なんというか、これはけっこう本気で腹をくくった支援と言えるだろう。ぼくは沖縄を離れてずいぶんになるが、元県民として、その心意気には感心している。


医療ボランティアといえば、他県の医師会・医療団体もがんばっている。毎日夕方には、釜石市に近隣の医療団体が集まり、現状の報告と問題点、そして今後の活動予定について話し合っている。どこも熱気にあふれたチームだ。


ほかにもたくさんの人たちがここを訪れ、なにかを提供している。それは物資であったり、労働であったり、気持ちであったり、声であったり、姿であったり。その人にできることを、その人にできる分だけやっていく。


さらに大事なのが、日本国中から、いや世界中から寄せられる支援金と支援物資。
それがなければ、なにも動かない。立ちゆかない。
優しい言葉はひとを幸せにする力があるけれど、衣食住足りることがなによりも優先される場面というのは、現実として確実にある。それを支える具体的な力。


その力が、日本中から、世界中から寄せられている。いまもまだどんどん寄せられている。


この震災は信じられないくらいたくさんの不幸を招いてしまった。たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が大事な人を失った。


でも、その痛みを(何百分の一かもしれないけれど)感じ、痛みのまっただ中にいる人たちのために自分の力を分けようとする人がこんなにもいる。


そう考えると、この世の中は、そう悪くない世の中なんじゃないだろうか。





2011年4月17日日曜日

桜咲く

朝、桜が咲いていた。
突然の開花。
六分咲きと言ったところか。

「こんなところにも、春はくるんだぁ」と、ある人が言った。

ここにも春は来る。


城山の青い空、桜


2011年4月16日土曜日

難しい

昨日、午後から一泊の休みを取った。
タイマグラの古い友人の家に泊めてもらい、風呂と食事をふるまってもらった。
十日ぶりの風呂。体も暖まり、心も暖まった。

そしてまた現場復帰。
醒めたというわけではないが、あれ、ちょっと違うぞと思う部分がある。

二週間ずっとここに詰めていて、ああした方がいいんじゃないか、こうするべきじゃないかとか、悩んだり動いたり反省したり頑張ったり。前へ前へ、そんな感じだった。
だけど、どうやらぼくの頭は少しカッカしていたのかもしれない。ずいぶんいろんなことに関わり、あっちに顔を出し、こっちに手を出し、だいぶ働いてきたと思っていた。

しかし、たった一泊だけど離れてみて再び戻ってみると、やってきたことのいくつかは自分の勇み足だったんじゃないかと感じたりする。眼下に広がるあまりの惨状と、過酷な避難所の現実を見続けて、それを何とかしなくてはといった焦りがあったんじゃないか。生活環境、医療環境、これらを向上させるためには、これこれが必要に違いないなどと・・・、うーん、それもやはり勇み足か。

ちょっと立ち止まろう。
主役は誰か。

「いる人」が主役であり、「去る人」は脇役だ。

ここは一発、仕切り直しといくべきか。
難しい。

友人が言っていた言葉を思い出す。

「熱い心と冷たいアタマ」ー A warm heart and a cool head.

何かを成し遂げるときに必要なものなのだと言っていた。反芻してみる。

2011年4月14日木曜日

大槌町、被害風景

 津波の被害とは、溺水だけでなく、この圧倒的な破壊力にあると思った。
砂浜で子供たちがいっしょうけんめい砂のお城を作る。
でも波のひと寄せでそれは一瞬で崩れ去る。
波の力とはそういうものなのだ。

 津波の直後、火災が町を襲った。

とんでもない高さを津波は包んだ。 

大槌町役場。
ここで約30人の職員が亡くなった。町長も含まれていた。

避難者に必要なもの

一言に避難所といっても、いろんな避難所がある。
ほんの少ししか見ていないのだけど、診察を受けに来る方たちに聞くと、たとえば職場の事務所に仮住まいをおいている人もいるし、お寺や老健施設、学校の教室や体育館も避難所となっている。廃校を利用して避難所としているところもある。もちろん、そういった避難所ではなくても、親類知人の家に身を寄せている人たちもいる。

ぼくがいまいるところは、大槌町の中央公民館。町営の体育館も付属していて、城山体育館とも呼ばれている。町の中心部(かつて繁華街だった場所だ)から見ると、丘の上にそびえる白い大きな建物だ。

東北の太平洋沿岸が地震と津波に襲われた3月11日の午後、この体育館に約600人の方が避難してきた。全員ずぶ濡れで、その濡れた格好のまま一夜を過ごしたという。しかも、津波によりプロパンガスのタンクからガスが漏れ、あっという間に火が噴き、それがガソリンスタンドや車から漏れたガソリンに引火した。その日はとても風が強かった。濁流に漂う家や木材が燃え、町のあちこちで同時に火事が起こった。

火の粉は城山体育館の丘にも飛び火した。体育館の回りでは山火事が起こり、人々はまったくなすすべもなく火の行方を見守るしかなかったのだという。

火事は翌日も続いた。

幸い、降ってきた雪のおかげもあって火は鎮まったらしいが、津波に破壊された町のあちこちに、まるで爆撃を受けたかのような黒い焦げ跡が残った。

地震と津波と火事。

大槌の避難所にいる方々は、誰もみな、一人の例外もなく、老いも若きもみんな、それを生き延びてきた人だ。

そういった人たちが、いまだに「避難所」で暮らさなければならない理由をぼくは知らない。この方たちには、修羅場を生き延びてきたということで、最大限の安息と慰安を与えらるべきだ。あの巨大な打撃のあとに、どうして今のような物理的精神的ストレスが加えられなければならないのか。

震災後、はや一ヶ月がたつ。

ぼくらはここで医療スタッフとして働いているが、ここに本当に必要なのは医療ではないような気がしている。

(画像を追加したのだけど、なんだかうまくいきません。後日アップロードします)

2011年4月9日土曜日

大槌町城山体育館避難所

さて、城山体育館避難所は大槌町を見下ろす丘の上にある。

4月9日現在の避難者は約270名。その方たちは、1階の体育館と2階の武道場に別れて生活している。広大なスペースに仕切りもなく、段ボール箱で区切っただけのエリアに布団を敷いて、それが一家族の生活の場所。子供も大人も老人も同じ。3月11日の地震・津波・火事から逃げ延びた人たちは、その日からずっとここで生活をしている。

大槌町は、この体育館のほかにもたくさんの避難所があり、合計32か所。そこに約2500人が生活している。現在の住民数がほぼ1万人なので、4人に一人が避難所にいるということになる。

確認されている死亡者数は600人近く。行方不明者は、ひと月が経つ今でも1000人以上。

城山体育館から大槌の町が一望できる。
ぼくはこの風景を毎日眺め、自分がここにいる理由と気持ちをリセットしている。

手前にあるのは町を見下ろす墓地。
真下にある寺の本堂は避難場所の一つだったが津波とそれに続いた火事で、
大勢の避難者が亡くなられたとのこと。

2011年4月8日金曜日

最大余震 震度6弱

昨晩11時半ごろ、大きな地震がありました。

ぼくにとっては生まれて初めての大きな揺れだったけど、こっちの人たちにとっては、あまりびっくりするようなことではないようで、慌てている人はほとんどいませんでした。揺れがおさまるやいなや避難所内の見回りをしましたが、避難してる人たちも、医療スタッフも、怪我なく皆元気です。

しかし、その後の停電は今日の午後まで続き、携帯も使えず。

3歩進んで2歩下がる、という感じです。それでも1歩は進んだわけですが。



本日、山奥の巡回診療に行ったさいの写真。巨石が道路の真ん中に。

2011年4月7日木曜日

岩手県大槌町

4月3日、日曜日に岩手に入った。
今回の津波被害が最も大きかった地域の一つ、大槌町に行く。

大槌町は沖縄県医師会の医療スタッフが震災後すぐ(3月16日)に入って支援を始めた場所で、ぼくもそのチームのメンバーに入っている。正式には4月16日から一週間というのが、ぼくの派遣期間なのだが、いくつか物資を届けるものがあったので、まずそこに立ち寄ったのだ。それに、そこにはぼくの古くからの友人、山代ドクターもいる。兄弟ともに親しい友人なので、ぼくは彼を山代兄と呼んでいる。

運転席以外まったく隙間なく物資を詰めたマツダMPVは、北上から遠野を抜けて、狭く曲がりくねった山道を上る。車体が沈み込むほどの重量なので、加速減速カーブ、すごく慎重だ。峠を越え、雪の残る細い山道を降りていく。谷川が見えてきて、民家がぽつりぽつりと回りに現れる。

と、突然、土砂にまみれたがれきが谷川に現れた。なんだなんだと思うまもなく、崩れた家や大破した車、無数のがれきが辺り一面に広がる。前触れなく、突然の光景だ。

もしなんの情報もなくこの光景を見たら、人はこれを津波の被害ではなく、空襲の後だと思うだろう。

徹底的に破壊されている。執念深く、ありとあらゆるものが破壊されている。

2011年4月1日金曜日

準備終了

本日は、朝より支援物資の受け取りと仕分け、それと買い出しを終え、おおかたの準備を整える。

本日の到着分は、沖縄北中城若松病院よりマスク・手袋・ナプキン等。それとパースのルーカスさんからは長野経由で大量のペットボトル水・米・生麺。島根の典子ちゃんからは大量の乾電池、ヘッドライト等。妻の両親と、義母の元教え子の由美子さんからは、クイックルワイパーなどのお掃除道具三セット。今日もたくさん集まりました。みなさんありがとう。

沖縄、島根、長野、東京、そして銚子の各地から集まった援助物資は、段ボール箱二十個を超えた。当初予定していたパジェロ一台には収まらないのは明らかだ。

そういうわけで、明日はパジェロとスズキ軽の二台で水戸の北にある友部に向かう。妻の両親も一緒に水戸まで来てくれることになった。友部で妻の弟の車に物資を乗せ替える。弟は8人乗りのファミリーカーを持っているのだが、「はじめさんは、車で寝泊まりするって言ってるんだろ、じゃあ、パジェロは狭すぎるよ」と言ってくれ、彼がその車を貸してくれることになったのだ。今日電話で聞いたところ、義弟は車の二列目のシートを取っ払い、三列目を完全に床に埋め込み、巨大なフラット空間を作ったのだと。「長さが二メートルあるから、はじめさん、思いっきり寝られるよ」と。

(ここで、いま余震あり。・・・すぐにおさまった。)

義弟のおかげで、ぼくはたくさんの物資を運ぶことができ、しかもキャンピングカーとしても利用できる。出発前はテントを用意していたのだが、それを使う必要はなくなった。食料もたくさん用意したので、避難所の方々の貴重なスペースにも食料にも手を付けずにすむ。よかった。

ちなみに義弟は水産食料品会社に勤めていて、被災地に向けて食糧品の提供もしたいと言ってくれている。そこのレトルトおでんは、以前ぼくは南極にも持って行ったことがあるのだが、原住民に大好評だった。

さて、大槌町に沖縄県医師会の医療チーム先陣隊として行っているドクター山代兄より、昨日注射用抗生剤の注文が入った。さっそく銚子市医師会に連絡して、手配できないかと相談していたのだが、銚子でも医薬品が十分に出回っていないということで手に入らぬと、本日連絡があった。しかし、最近のぼくはあきらめが悪いので、銚子の医薬品卸問屋に直接電話。残念ながら、注射薬は在庫においていないということであった。昨日電話していれば、千葉本店から手配できたものを・・・、と悔しがる。

しかしまだ負けぬ。今度は水戸の卸問屋に電話を入れる。二件目にかけたところに、なんと在庫あり。さっそく「沖縄県医師会」の名のもとに注文して、明日午前中に取りに行きますと伝言した。やはり、大事なことは人任せにせず、自分で動くべきなのだな。

と、思っていたもつかの間、一時間後にその問屋から電話あり。水戸保健所の「指導」により、たとえ医師であろうとも医師法に基づき直接販売はできないということになりましたと。もしどうしてもというのなら、沖縄県医師会から水戸市医師会に依頼をしてもらい、水戸市医師会から発注というふうにしてもらわないと困るのだと。

はあ? である。

いやいやいや、これは被災地で起きている出来事であり、そんな悠長なことは言ってられないのですよ。問題のポイントがぼくにはわかりません。都道府県をまたいでの医薬品の売買は震災後の臨時措置で認められているわけだし、もし所属団体が発注するべきだというのであれば、ぼくの所属する沖縄の病院長から直接発注という形で十分じゃないでしょうか。

対応しているおねえちゃんは、明らかに困っている。彼女は、個人としてぼくの(つまりは被災地の方々の)応援をしているのであるが、彼女の「上」が必要以上に問題を大きくしているのだ。

「わかりました、そのことをまた相談してみます」と彼女は言って電話を切った。なんとかぼくの要望に応えたいと明らかに彼女は思っている。

うわあ、しっかし、久しぶりに腹立ったなあ、と思っていたら、再びドクター山代兄からメール。「こっちの開業医さんのルートで明日手に入ることになりました!」と。ありゃりゃりゃりゃ、先ほどの彼女に慌てて電話して、すんません、たったいま解決しました! まあ、なにはともあれ、よかったではあるが。彼女もとても喜んでくれていた。

しかし、なんだろうなあ、ある目的を達するために手を尽くすということを、どうしてある種の「力のある」人たちはやってくれないんだろう。ぼくのような人間より保健所の人や医師会の人というのは、ずっと力がありネットワークも広いはずだ。「できない理由をさがす」より「できる方法を見つける」ことに力を注いでくれれば、世の中はもっと過ごしやすくならないか?

ましてや、いまは非常時なのだ。普通の人がおろおろとするこの時に、いわゆる専門家はよしとばかりにプロの視点でさまざまなルートを開拓し、困っている我々をすくい上げるべきではないのか? できるはずだ。やれば、できるはずだ。

今回のこの個人的プロジェクトの中で、まず第一に学んだことは、巨大な組織は動きが遅いということ。彼らはまず自分をプロテクトすることから発想と行動を始める。柔軟で素早く、そして時にびっくりするような集中力を示すことができるのは、個人の力だ。

だけど、残念なことに、その個人のびっくりするような力を巨大な組織は削いだり押しとどめたりするのだ。

さ、明日は早い。これでもう寝ます。
次ブログを更新できるのはいつになるか分かりません。
おやすみなさい。