2018年3月11日日曜日

七年目

七年目。昨晩とても久し振りにその時の日記を読み返した。

災害のあと、ぼくは岩手の大槌町で医療ボランティアをしていた。支援物資を目一杯積んだ車を運転し、雪混じりの峠道を越えて大槌に到着した時の驚きを今でも覚えている。その日から城山公民館の臨時医務室で五週間を過ごした。一日一日があっという間だった。たくさんの人に出会った。いろんな話をした。いろんな話を聞いた。

何かの助けになればと思って行ったのだけど、気負いが過ぎたのか、一人で空回りしたり、かえってそこの人たちに無理を強いていたり、日記の中の自分は毎日毎日浮いたり沈んだりを繰り返す。「そこに居続ける人」と「そこをいずれ去る人」との間には大きな河が流れているにもかかわらず、しかしともすると去る人たちはそのことを忘れてしまう。自分が当事者であるかのように考え振る舞ってしまう。ダメだなぁと日記を読み返しながらため息が出る。

五週間が過ぎてその避難所を去るとき、たくさんの人たちが見送ってくれた。「去る人」には帰る場所があり、帰る日があるのだ。ぼくが去った後も、みんなはその避難所でまたいつもの生活が待っている。ぼくは後ろめたかった。来たときは車体が沈むほど荷物が満載だったワゴン車がいまはガランと空っぽだ。城山を去るときの、バックミラーに映る彼ら彼女らの手を振る姿は今でもはっきりと覚えている。

大槌から釜石を経て遠野に向かう道すがら、いくつもの鯉のぼりが川岸に吹かれていた。美しい青空だった。春が来たんだ、ここにも春が来たんだ、と風に流れる鯉のぼりを見ていた。と、ラジオから松任谷由実の「春よ、来い」が流れてきた。ボロボロボロボロ泣きながら、僕はその歌を聞いていた。

七年が過ぎた。あの時出会ったすべての人に七年という時が流れた。中学生だった子が今年大学を卒業した。社会人としてもう立派に働いている子もいる。新しい仕事を見つけた人、住み家を再建した人。でもいまだ避難住宅での生活を強いられている人たちもいる。

もちろんぼくにもその時間が等しく流れた。七年という時間はじゅうぶん長い。いろんなことがあった。大槌にはあの後も数回訪れた。町の復興は緩やかではあるが確実に進んでいたけれど、それよりもはるかに人々の復興が先を行っているように感じた。

もはや何ができるわけでもなく、ただ単に旅人として、大槌の姿を見に行っているだけだ。いやただ一つできるとすれば、あの避難所の辛さ悲しさ、人々の気丈さとたくましさを伝えること。そこにいた方々はみなその時を経て来たのだということを、ぼくは知っている。それは誰もが知っているはずだ。

今日の昼過ぎ、北の空に向かって黙祷を捧げた。一万キロ向こうに住む人たちと、無念に命を失った人たちに祈った。今年も青く美しい春があの地に来ますように、と。