2011年9月11日日曜日

あれから10年、あれから半年

21世紀はSep.11から始まった。

未来の代名詞だった21世紀は、暴力と憎しみに満ちたスタートとなった。
報復が報復を生み、暴力が次の暴力を呼ぶ。憎しみの連鎖は途切れることがない。
憎しみの連鎖は断ち切るべきだと総論的に理想を説いても、「殺される側」に立つ人々の気持ちや感情が癒されない限り、それは無理だ。

じゃあ、国のレベルでそれは可能なのか。政治はそれを可能にしてくれるのか。
もちろん原理的には可能だと思う。でも実際は、国が、政治が、国民を煽動し暴力を増幅させてきた。

巨大なものはそう簡単に動かない。もはや、地面を這う蟻のような、海中に群れなす小魚のような、そういったものこそが時代を動かす力となっていくはずだ。

そして今日は、あのMarch.11から半年目の日でもある。

ぼくらはもう十分に気づいている。国は、政治は、人々を助けはしないことを。巨大な何か、それはたとえば大企業であったり、大新聞をはじめとする巨大マスコミであったり、それらも人々を本当に助けはしない。

いま人々の助けになっているのは、蟻のような小さな力の集まりだ。ささやかだけどたゆまない動きが作り出す力が、被災した人たち、被爆した人たちを支えている、支えようとしている。名を持たぬ小さな力が集まって、大きな出来事を生んでいる。

大きな力が操ってきた時代が、こうやって変革されていくのならば、21世紀は「未来」の代名詞としてふたたび明るい響きを持つことになろう。

諦めずに、溜息を吐かずに、小さくても正しいことを続けよう。
いつか必ずぼくらの力は実を結ぶ。

明るい未来はそのときにやってくる。

2011年8月11日木曜日

五ヶ月が経ち

早い。
ほんとに早い。

今日で五ヶ月だ。
でも、早いと感じているのは、ぼくが当事者でないからかもしれない。

あの日を経験し、あの日からの厳しい生活を毎日毎日経験している人たちにとっては、遅々として進まぬ日々なのかもしれない。

五ヶ月も経つのに・・・、という気持ちの方もきっと多いのだろう。

オーストラリアに戻ってきて、ぼくにできることは本当に限られてしまった。
それはとても歯がゆいことだ。

ここに戻ったいま、なんとかぼくに「できていること」は、

友人、知人、職場の仲間に現地の話をすること、
テレビ、新聞などのメディアの取材に応じること、
呼ばれればどこにでも行って話をすること、
大槌の人たちと手紙のやり取りをすること。

特に、手紙を書くということに時間をかけている。
たとえひと月に一度のやりとりだろうと、それが続く限り「大丈夫」のサインをやり取りしていることなのだと信じている。

オーストラリアの花や鳥や動物や岩の映ったポストカードに字をしたため、無事とどくことを祈りつつ送る。オーストラリアといえば美しいビーチなのだが、ぼくは青い海の映ったカードを彼の地の人に送れずにいる。

どうか大槌の方々に、東北の方々に、日本各地に避難されている方々に、安息と健康を。
「祈る」ことが、おそらくぼくにできる最大のことかもしれない。

2011年6月14日火曜日

大槌町からの手紙

今日、大槌町でいっしょに仕事をした地元の方から、沖縄県医師会に手紙が届いた。MLでぼくの方にも送られてきた。多くは割愛するが、その中の一節を書き出させていただく。

「想像もしない大きな災害ではありましたが、また人の力の尊さや強さもかみしめた、今回の出来事です。けっして失ったものばかりではなかったということを実感し、力づけられております。

復興には、まだまだ長い時がかかることと思いますが、少しずつ歩みをすすめる大槌町を、これからもお見守りくださいますようお願いいたします。」


心を打たれた。この方もまた、たくさんのものを失ったひとりだ。
人間とはなんて強くてなんて優しいいきものなんだろうと、あらためて実感した。
大したもんなんですね、人間って。

2011年6月1日水曜日

城山診療所、本日撤収


3月16日より城山体育館で診療を行ってきた沖縄県医師会が、今日5月31日をもって撤収した。

大槌での活動の様子はメーリングリストで頻繁に報告されていたので、支援を終えてオーストラリアに戻ってきたぼくにも、現地の様子は毎日伝わっていた。最近は写真の添付もあり、住み慣れた(実際、ぼくらはあの診療所に住んでいたわけで)あの診療所がだんだんと片付けられて行くさまを見ていると、ちょっと寂しい気持ちになった。本日回ってきた報告書の写真の一枚には、テーブルもイスも敷居に使っていた段ボールの板も、薬の棚も点滴の箱も、何もかもきれいに片付けられていた部屋が写っていた。こんなに広かったのか。




撤収に関しては、じつはだいぶ前からたくさんの方々と話し合いがもたれていて、その時期や方法が考えられてきた。撤収のひとつの大きな目安は、地元の医療機関へのバトンタッチが円滑にできるかどうかだ。その点に関して、すべての医療機関が津波で破壊された大槌町だったが、その医療機関の医師やスタッフの方々が、もうすでに仮設の診療所でそれぞれ診療を再開している。それは予想よりもだいぶ早い再開であり、地元の医療関係者の方々の熱意と苦労にはほんとうに頭が下がる。

患者さんの振り分けや引き継ぎもだいぶ進んだようだ。再開された診療所の情報もずいぶん前から避難所の方々に周知されている。撤収後は日赤の医師団が週に4回巡回診療に来てくれることにもなっている。

できるかぎりのことをしてきたとは言え、やはり城山避難所の住民の方々は、沖縄県医師会の撤収に関して不安であり心配をおぼえることだろう。

でもこの変化は、町が一歩前に進むために必要なものなのかもしれない。自立を支えるということも、「支援」の大きな目的のひとつだ。地元の医療機関が自立するのを助け、それを見届けたいま、撤収する。支援はもちろん続く。ただしそれは形を変え、方法を変える。

大槌町と深く関わったいま、沖縄県医師会は今後も様々な形で支援を続けるという。オーストラリアの端っこにいるぼくもまた関わり続ける。支援には終わりはない。

一緒に送られてきた別の写真には、大槌の町が写っていた。町に果てしなくあったガレキは、着実に片付けられている。そこに、新しい何かが芽生えていくように見えた。

2011年5月23日月曜日

収支報告

今回の東北大震災医療支援に関して、とてもたくさんの方から応援をいただきました。応援の内容は、支援金、支援物資のみならず、車両貸与や無形の援助までさまざまでした。

以下におおまかな報告をさせていただきます。概算に留まります。手元にあるレシートを参考にして作成しましたが、レシートに残らないような支出は分かる分だけ算出してあります。携帯電話の使用料金などの、これから発生する金額は加えられていません。というわけで、細かな収支は現実問題として不可能でした。ご了承下さい。

ちなみに、支援金に関するぼくの考えは、以前書いたエントリーに説明してあります。どうぞご参考下さい。


では、まずは資金援助から順々に報告させていただきます。



1.資金援助総額と概算総支出
基本的には、友人や知人からのカンパのみを頂くということにしたのですが、上記(「資金援助について」)のぼくの考えに賛同していただける方からも、資金援助のお申し出をいただきました。それらも有り難く頂き、大切に使わせていただきました。

  • 援助金額(現金及び銀行振り込み)
     豪ドル:3400ドル
     日本円:544,745円

  • 支出
豪ドル:約2500ドル
日本円:約235,000円

支出の主な内容は以下の通りです。
オーストラリア日本往復チケット・海外旅行者保険・6週間分の食料・サプリメントを含む医薬品・交通費・携帯電話契約等の通信費・宿泊費・燃料代

  • 上記支出以外に、お預かりした支援金より下記5ヶ所に寄付を行いました。計35万円です。


    • ただし、この寄付は、ぼくの妻がオーストラリアで企画運営した複数のチャリティーコンサート等からのドネーションも含まれています。妻の預かったドネーションの総額はA$1,782.95でした。このドネーションはぼくへの支援金ではないので、全額下記団体へ振り込みました。
    • 上記ドネーションにぼくが個人的にいただいた支援金(約750豪ドルと15万円)を足して、下記35万円の寄付としました。少しややこしいことになりましたが、夫婦でやっていたことなのでご了承を。ちなみに、妻はチャリティーコンサートに関わった方々に直接収支報告を行っております。
    • 妻の企画運営したチャリティーコンサートに関しては、このブログでもいずれ報告させていただきます。

      • よって、現時点での概算総支出は
           豪ドル:約3300ドル
           日本円:約385,000円

      上でも説明いたしましたが、この総支出にはレシートに残っている分のみです。それと、これから請求される分は含まれていません。


      2.物資援助
      ぼく個人宛てに、長靴・電池・食料・キャンピングコンロ・燃料・防寒下着・ヘッドライトを頂きました。
      さらに現地支援物資として、大人用おむつ(段ボール8箱)・ペットボトル飲料水(6箱)・食料(米・おでん・リンゴ6箱・バナナ6箱・生めん)・ペット用品・サニタリー用品・電池・懐中電灯・おもちゃ・折り紙・マスク・手袋・エプロン・掃除用品(クイックルワイパー等)を受け取り、4月3日に無事大槌町の物資集積場に届けました。一部については、城山体育館の被災者の方々へ直接お渡しいたしました。


      3.車両貸与
      妻の弟(水戸市在住)に、8人乗りワゴン「マツダMPV」を貸してもらいました。約一ヶ月半に渡って、このMPVは大活躍でした。ベースキャンプとした妻の実家の銚子から大槌町への大量の物資搬送をはじめ、車両のほとんどを流されてしまった大槌町役場の保健師さんとの地域往診まで、とてもたくさんの場面で使わせてもらいました。
      被災地は、埃が多い上に慢性的な水不足なので、MPVは洗車されることもなく悲しいほどひどい汚れ具合でした。大切に使われていたMPVが日増しに汚れていくのを見てぼくはとても辛かったのですが、義弟は一言もそのことには触れませんでした。もちろん銚子に戻ってキレイに内も外も洗いました。
      一度バッテリーを上がらせてしまったので、それも含めて整備費として若干お渡しいたしました。


      4.その他
      今回ぼくの活動は、「ひとりNPO」として出発したものでしたが、沖縄県医師会からの派遣医師という身分のもとでもありました。公的な派遣依頼は4月15日から22日でしたが、実質的には大槌町城山体育館救護所で過ごした5週間の活動は沖縄県医師会の援助があったからこそです。上記MPVの大槌町内外でのガソリン代と支援期間中花巻での一泊の宿泊費も、沖縄県医師会から援助頂きました。

      カンタス航空からはパース・成田間の往復チケットを400ドル、ディスカウントしてもらいました。タダでチケットくれてもいいじゃないかと当初は憤っていましたが、いま考えると、突然の申し出に400ドルディスカウントとはありがたいですね。

      銚子の妻の両親には、ハード面ソフト面とも大きな応援を頂きました。外国に住むものとして、関東圏にベースキャンプが置けたのはとてもありがたいことでした。まさか出身地の沖縄には置けませんし。

      岩手県タイマグラの民宿フィールドノートには風呂と洗濯と休養のため、3度宿泊しました。女将と旦那さんにはボランティア料金での宿泊料を適用してもらいました。


      以上、現時点での収支報告です。


      現時点で、収支のバランスはプラスにありますが、実際のところおそらくほぼゼロになるだろうと思います。もし最終的にプラスとなったとしても、それは今後ぼくが再び被災地を訪れるときの交通費に充てさせていただきたいと思います。ご了承下さい。


      こうやって思い返してみると、つくづく大勢の方々に応援してもらったんだなあと実感しています。ぼく自身、怪我なく事故なく元気よく、全期間現地で医療支援をすることができて、ほんとによかったと思います。


      有形無形の応援を頂いた、みなさんのおかげです。
      みなさんのその気持ちは、確実に被災地の方たちに伝わったと思います。


      ほんとうにありがとうございました。

      手書きの手紙

      5月8日に大槌を発ち、早いものでもう二週間が経った。日本でいろいろと片付けものがあり、オーストラリアの我が家に戻ったのは、ちょうど一週間前だ。大槌の城山診療所にいた時は、一週間というタイムスパンはだいぶ長く感じたのに、この二週間はあっという間だ。

      家に戻って、ずいぶん手紙を書いた。大槌で出会った人々に。

      元来とても筆無精で、そのせいで過去にたくさんの失礼をした。パソコンが手元にあるようになってからは、ちょこちょことメールを書いたりはするのだが、手紙を書くとなると一段も二段も敷井が上がる。それでも時々はパソコンで文章を書き、それを印刷するというやり方で手紙を送ることもあった。同じ文面を印刷して宛て名だけ変えるという「手抜き」も、パソコンでなら簡単だ。メールでいえば Cc みたいなもんだ。手元に送った内容が残るということは悪くないし。

      でも、今回はすべて手書きで手紙を書いた。なんとなく、時間と労力を傾けるのがいいような気がしたからだ。

      元々メールでつながっていた人たちとメールでやり取りするのはなんら問題はないが、大槌で出会った被災者の方々とは、なんというか、アナログな出会いというか、生身の出会いというか、つまり、具体的な労働力を介した出会いのような気がするのだ。キーボードで文字を打つ作業も労働と言えなくもないだろうが、いやいや、テーブルの上を片付け紙を用意しペンを探して文字を書く、その文章も宛て先の一人ひとりの顔を思い浮かべてああでもないこうでもないと書き進め、さらに封筒に宛て名を書いて郵便局に持っていって投函するという作業ははるかにはるかに心と体を使った労働だ。

      正直言って、おそらくどの手紙も内容にそう違いがあるわけではない。向こうでぼくが何を思い、その方に何を伝えたいかなんて、十通書いて十通りあるわけがない。でも、たとえ同じような内容でも、一字一字その人に当てるという作業の中で、大槌で過ごした日々が少しずつ昇華されていくような気がした。

      20通ほど書いた。丸三日はかかった。

      それが一週間ほどかけて大槌に運ばれ、みんなの元に届けられる。返事が来るとしても、それからまたゆうに一週間はかかる。まるで遅々として進まない復興計画のようだけど、起こした行動は、小さくともそれなりに実になるのだ。そろそろ届いたかなあと想像するのも悪くない。

      2011年5月7日土曜日

      大槌を去る

      明日の朝、大槌を去る。
      結局、ひと月あまり大槌町にいたことになる。正確には5週間と1日。

      「ひとりNPO」としてオーストラリアからやって来て、その当時は実際どこで自分が医療支援ができるのかもじゅうぶん決まってなかった。いま考えると、なんだか無謀だったなあと思うのだが、このひと月余りを振り返ると「来るべき時に来るべきところに来た」という感じがする。「縁」という言葉をとても強く感じる。その縁にぼくは感謝している。ここで出会った多くの方々に、ぼくはとても感謝している。

      そして、快くここに送り出してくれた妻にありがとうを言いたい。ぼくの留守中、妻や子を支えてくれた友人たちにもとても感謝している。

      そして今日。大槌町で送る最後の一日。

      地震と津波と大火災に見舞われた多くの人たちのことを思うと、とても心が痛む。

      この悲劇は誰の身にも起こりえることだった。東京でも起こりえることだし、沖縄でも起こりえることだ。本当に、たまたま東北沖で地震が起こり、大勢の人が亡くなり、大勢の人が傷つき、大勢の人が様々なものを失った。帰ってこない人も大勢いる。

      普通の人生を歩んできて、普通に生きてきた人たちが、とんでもなく異常な日々を送らなくてはならなくなった。それが自分でなかったことは、単に偶然でしかない。

      ここに来て深く思うのは、あたりまえの生活のなんとはかなくもろいものかということだ。

      形のあるもののはかなさもまた。

      大津波と大火災で破壊された大槌の町を見ると、心が痛い。何度見ても、そのすさまじさは衝撃だ。駅舎が消え、水に浸かった線路。土台だけを残して消えてしまった家屋。ガレキと呼ばれる、無数の記憶の塊。黒く焼け焦げた校舎。

      だが正直なところ、「日常の当たり前の風景」として見慣れてしまうこともある。見慣れているということに気づくたび、そのこと自体が別の衝撃となる。

      ここを去ったあとに自分に残るのはいったいなんだろう。自分はいったいここで何を見て感じてきたのだろう。

      生きるということの不条理と残酷さか。
      残酷な人生に立ち向かう、人間の力か。
      人の営みをいとも簡単に流し去る自然の驚異か。

      そのどれでもあり、どれでもないような気がする。

      おそらくひとつ言えることは、生き残った人たちは一人一人が物語を持っていて、その物語に触れるたび、ぼくは言葉を失ったということだ。

      言葉を失ったときに訪れる、あの静けさ。生きるということの、その悲しさ。人と人が遭うということの、この重さ。

      もし人生に意味があるとすれば、きっとその静けさの中にあるんだろう。

      ずいぶん感傷的になっている。

      「去る者」はこうして事実を感傷的にとらえ、「居る者」は事実を生き延びなくてはならない。ぼくが最後の日を感傷的に過ごしているこのときも、ここにいる人たちは今日一日を明日を明後日を生き延びていく。

      オレはそのことを忘れてはならぬ。

      2011年4月30日土曜日

      希望の灯火



      ぼくはローソン派になることにしました。

      大槌町は津波ですべての医療施設が壊滅したのですが、じつはコンビニとスーパーもすべて失われてしまったのでした。小鎚川沿いにあるショッピングセンターは完全にやられ、そのすぐ向かいにあるコンビニ「ローソン」も建物はかろうじて残ってはいたものの、そのまわりは瓦礫だらけ。青と白の外装が、無残に散っていました。まあ、取り壊されるのは時間の問題だろうと。

      ところが、昨日、そのローソンが完全復活オープン!

      床を張り替えガラスを入れ直し、店内の冷蔵庫からなにからすべて入れ替えて、なんとなんと再びオープン。津波を受け瓦礫の散っていたその場所に、ローソンの青い明かりが灯っているのを見たときは、なんだかジンときました。

      夕方の釜石での医療災害対策本部のミーティングの帰り、一緒に車に乗っていた皆で、そのローソンを見に行ってみました。駐車場は車でいっぱい。町の人々が嬉しそうに店に入っていく。再オープンとはいえ、中はまだ不十分だろうと思っていたら、なんと完璧でした。冷蔵庫にはプリンもビールも冷えていて、レジの横にはおでんまである!

      ぼくらは口々に「おー、すごい!」を連発。
      町の人たちもその話で持ちきり。

      町に店の明かりが消えてひと月半。その最初の明かりがその青い灯火なのです。
      町に灯るローソンの明かりが、ぼくには希望の光に見えました。

      よくやった、ローソン!
      ありがとう、ローソン!

      2011年4月29日金曜日

      一時移住を考える

      避難者への一時移住の働きかけが、たくさんの自治体からなされている。沖縄県もその一つだ。大槌町でいえば、車で2,3時間で行ける花巻も一時移住についてかなり積極的に広報されている。先日一泊してきた大沢温泉にも、90名の避難者が大槌から来て生活をしているということだった。それを聞いて、ぼくはとても嬉しかった。被災地から一時的に離れ、壁に仕切られた部屋の中でプライベートを守りながら、家族で生活する。そういう「当たり前」の生活が、たとえ90人とはいえきちんとなされていることを知って、こころからほっとした。


      一時移住の必要性と重要性は、いろんなところでいろんな人たちが話している。


      基本的にぼくは一時移住に賛成だ。避難所の生活を続けることは、肉体的精神的にかなりのストレスであり、健康を直におびやかしている。できることなら、ここにいる避難者を全員一時移住の地に連れて行きたい。そこでゆっくりと休息を取り、再生に向けて新たに力を溜めてもらいたいと思う。ほんとにそう思う。


      だけど、ひと月この避難所にいて、それがとても難しいことを実感している。


      親が子供が、行方不明のままだという人がいる。見つからないままここを去ることはできない。たとえひと月だろうと、ここを離れて心が安まるとは思えない。それどころか、きっと余計に苦しむだろうと。


      家族そろって一時避難をしたいのだけど、父親あるいは母親が仕事を持っている。運良く仕事場が被災を免れたのだ。その父や母を置いて、残りが一時移住をすることはできない。


      同じように、家族内で意見が割れたとき、半分が移住し、半分が残るなんていうことはできない。それでは家族が分裂してしまうという。


      ある老女がたとえ一人だろうと一時移住をしたいと思った。家族にそれを持ちかけた。残念ながら、その方は家族の反対にあい、移住を諦めた。反対の理由はわからない。


      とにかく、土地から離れることはできないという人もいる。


      たとえ短期移住だろうと、ここを離れるとさまざまな情報が届かないかという心配がある。仮設住宅の抽選に影響が出るんじゃないかと思う人もいる。


      短期移住から帰ってきたとき、「村八分」のような扱いを受けるんじゃないかと危惧する人もいる。


      さまざまな理由がある。思いも寄らないことが理由になっていることもある。


      そういったことが分かってからは、短期移住こそがいまなされることだとは言えなくなった。移住は、さまざまなオプションの中の一つの選択肢であり、それを選ぶことができる環境の方だけが参加すればいいのだと思うようになった。絶対これがいいのだと外部の人が主張して、誘拐まがいのことはしてはいけない。


      そうなると、ぼくら医療従事者が考えなければならないことは何か?


      避難所の環境整備だ。医療の点から見た、健康と安全の確保だ。けっして快適とは言えない避難所の生活を、いかに少しでも安全にしてくのか。避難者の健康を、いかに向上させるのか。それらが、避難所内の診療所をあずかる医療従事者の仕事じゃないかと思っている。


      付け加えていうならば、いまでもぼくは、移住の必要性と重要性を患者さんや避難者の方々に折りに付けて説いてはいる。でも決断は、こちら側ではなく向こう側にある。

      四十九日




      昨日、午前中診察に見えていた三浦おばあさんが、「今日は娘の四十九日だから、午後からお寺さんに行ってきます」と言っていた。いつものにこやかな笑顔ではあったが、それだけにいっそう辛く感じた。
      4月28日、 震災と津波のあの日から49日目に当たる。
      ということは、三浦おばあさんの娘さんだけでなく、大槌町だけでも700人近くの方が四十九日を迎えたというわけだ。行方不明者を含めると2000人近くになる。
      ぼくらはあの大災害からひと月目とか100日目とか言うけれど、亡くなられた人を中心に考えると、初七日とか四十九日といった数字の方がさらに意味を持つ。地震と津波は確かにとんでもない出来事だっただけど、極端に言えば、地震や津波がどうこうというよりも、亡くなられた人たち、生き延びた人たちが出来事の主役であり、すべての文脈はそこを中心にして語られるべきなんだと思う。
      前にも書いたと思うけど、あの3月11日を生き延びた人たちは、その直後から暖かく守られた快適な環境で生活を送るべきだった。冷たくて怖くて悲しくて辛い日を過ごした人たちが、そのあとに避難所の生活をひと月も二月も送るべきではない。決してそうさせるべきではない。国は、国民は、最大限の努力をしてその人たちをなんとしてもすくい上げて守らなくてはいけないと思う。
      4月28日、城山体育館のまわりの桜は満開だ。折からの山風が、桜の花びらを眼下の町に降らせていた。

      2011年4月27日水曜日

      城山体育館(大槌中央公民館)避難所近況

      大槌町城山体育館避難所
      約180人がここにいて、2階の武道場に100人、
      3階の大会議室に40人ほどが避難生活を送っている。


      4月3日にここ大槌町に入り、はや4週目になる。ここに来る前は、被災地の救護所がいったいどういう状況なのかほんとに分からなかった。野戦病院のような状況なのだろうかと思ってさえいた。

      ぼくは自分の面倒は自分で見るというスタンスで準備をしてきたので、義弟から借りたマツダMPVの中で一ヶ月半生活ができるようしていた。どんなことが待っているのか分からなかったからだ。きっと寝るところもないに違いないと。

      ところが、野戦病院のような時期はとうに終わっていて、不十分な施設の中でのやや騒然とした外来診療といった感じだった。最初の一、二週間で、本当の救急医療の時期は終わっていたのだという。薬がまったく足りないとか、重症患者を運ぶ手立てがないとか、それ以前に医療従事者があまりにも少ないとか、そういう時期はすでに過ぎていた。

      救護室と書かれたドア。中会議室といった感じの部屋を、折りたたんだ卓球台と段ボールとで仕切りを作り、救護室、保健師のスペース、薬剤師のスペースに分けてある。奥に小さな休憩所がもうけられ、そこでお湯を沸かしたり、カップラーメンやレトルトカレーを食す。夜は部屋のテーブルとイスを片付け、床の上にマットを敷いて寝袋に入る。多いときで10人、少ないときでその半分。医師と看護師と事務員の共同生活。朝9時から夕方5時までの診療時間とうたってはいるけれど、基本的には24時間体制。夜の8時には医師全員で一階の体育館や二階の武道所を訪れ、避難している人たちを見て回る。一人一人に声をかけ、顔色を見て歩く。

      そういう風な毎日。それは基本的にいまでも変わらない。

      しかし徐々にだけど変わってきていることもある。

      まず、患者さんの疾病構造が変わってきた。
      当初は、夜の8時のラウンドで発見する異常も少なくなかった。東北の人は我慢強いというけど、ほんとにその通りで、食欲もなく水分もとれていない老人が、ただ迷惑をかけたくないということですぐそばの救護室にも行かずに布団の中にいる。変だなと声をかけると、熱がありかなりの脱水。何らかの感染症から来る敗血症も疑われる。即、近隣の宮古病院に救急搬送ということも珍しくなかった。野戦病院のレベルは過ぎたとはいえ、緊急度の高い患者さんは幾人かいたものだ。

      いまはそういった患者さんはいない。8時のラウンドが功を奏したのも確かだと思うが、周囲の方たちがきちんと目をかけているのが大きいと思う。自分と家族のことでいっぱいいっぱいだった時期を超え、周りの人のことを気にかけることができるようになった、ということなのだと思う。

      そういった時期のあと、しつこい咳と、喉の痛みを訴える人が増えた。津波のあとの瓦礫から巻き起こる細かいダストが刺激となって、人々の喉と気管を痛めていたのだ。ちょうど杉花粉が大量に飛び散る頃だったので、花粉症とも重なり、診療所を訪れる患者さんのほとんどが、しつこい咳になやまされていた。ラウンドに行くと、広い体育館のあちこちで咳き込む音が聞こえたものだ。咳のせいで夜眠れないという人もたくさんいた。しかしそれも、住民みんなで行った大清掃と、館内土足禁止措置、空気清浄機の大量導入、加湿器、マスク着用の励行、うがい、そういったもので徐々に減っていった。いまもまだしつこく続いている人もいるけれど、当初に比べるとだいぶましだ。

      少しずつ物事は改善しているように見える。

      だけど、残念ながらそう単純ではない。現在避難所が抱えている問題は、脱水状態とかしつこい咳といったような「目に見える」ものに比べて、遙かに深刻だと思う。

      マスコミでもあちこちで取り上げられているが、食事の問題はとても大きい。ここ城山避難所は、基本的に一日二食だ。正確に言えば、ボランティアグループが炊き出しをしない限り、一日二食だ。たとえば、ある日の朝のメニューは、おにぎり、菓子パン、フルーツゼリーとチョコレート。昼の分になるように多めにおにぎりやパンが渡されはするが、これはすべて炭水化物だ。さらにいえば、ただの糖分だ。夕に配られるのも、たとえばおにぎりと缶詰といった感じ。温かい味噌汁が付けば、それはごちそうのたぐい。サラダなどほとんどない。最近はお弁当方式で品数も増えてきたが、いわゆる家庭でふだん食べているような食事内容にはほど遠い。

      炭水化物以外の必須栄養素が、まったく足りていない。筋肉量を維持し、代謝の根幹にかかわるタンパク質が、まず絶対的に足りない。新鮮な野菜も(調理済みも少ないのだが)ほとんどないので、ビタミン・ミネラルが間違いなく不足している。脂肪酸も、EPAといった不飽和脂肪酸がほとんどなく、缶詰や保存食に含まれるのは悪質な飽和脂肪酸ばかり。

      栄養不足は、基礎体力を低下させ免疫力を低下させる。こんな栄養状態で、万が一インフルエンザでも発生しようものなら、抵抗力の低下から重症化する人は通常よりも多くなるに違いない。

      運動不足も大きな問題だ。他の避難所はそうでないかもしれないが、ここ城山体育館避難所は、散歩をする場所が限られている。高台にある体育館の脇にはちゃんとした道路があって、そこは桜の並ぶなかなかいい散歩道なのだが、避難者の方々は、そこから見える町の惨状に耐えられないのだという。そう言う人に外の散歩を勧めることができるのか。こういったこともそうなのだが、他所からやって来たぼくらには思いも寄らない話が、ここにはいくつもある。館内の散歩をすすめても、スペースに限りがあり、うまくいかない。そもそも避難所の中で布団にうずくまって気力の衰えている老人を、どうやって積極的に動かすかという方法がぼくらにはわからない。マンパワーの不足とも言える。

      もう一つは、こころの健康。不眠を訴える人が増えている。体育館の床の上で、たとえばわずか3.4畳ほどのスペースに一家族が生活する、というような状態。仕切りもなく、わずかな着替えもなにもかもが段ボール箱に納められ、食事もそこですまされる。200人近い人たちがそんな風に生活し、夜も「同じ屋根」の下で寝る。ひと月以上が経ち、慣れてきたと人々はいうけれど、意識下でたいへんなストレスを受け続けているのは想像に難くない。そのストレスが不眠や不安、あるいは身体症状を呈する神経症をもたらすのは、むしろ「正常な反応」とも言える。

      沖縄県医師会が詰めている城山診療所にも、沖縄県から精神科医が一週間来られていて、積極的に不眠・不安を訴える患者さんを診てもらっていたが、むろん一週間だけの問題ではないわけで、この地域にも様々な都道府県からやって来た「こころのケア」チームが活躍している。「世界の医師団」というボランティアグループもメンタルケアも含めて活躍している。

      被災地の医療は、身体問題よりもむしろ心の問題にシフトしてきていると言えると思う。身体問題も、急性疾患よりもより慢性的な問題に重きが置かれる時期だ。

      栄養不足、運動不足、こころの問題、それらがもたらすものは、徐々に進行する免疫力の低下と精神疾患の増加だ。表向き落ち着いてきたように見える避難所の風景だが、その深層ではとても深刻なことが進行している。

      そのことは、ぼくら城山診療所のメンバーや沖縄県医師会の事務局だけでなく、被災地域のあらゆる医療スタッフの共通認識となっている。問題は、その解決法が医療スタッフの努力だけでは成り立たないと言うことだ。それは広く行政の問題であり、避難所の自治の問題でもある。ぼくらの活動と提言がどれだけ実を結ぶのか分からないが、諦めることなくしつこくやっていくしかないと思っている。

      先はまだまだ長い。
      表面だけを見ていては大事なことを見逃してしまう。

      2011年4月23日土曜日

      「架け橋」と「祈り」

      ぼくを東北の被災地に快く送り出してくれた妻だが、彼女もまた現地(西オーストラリア・バンバリー)で、被災地の支援のために奮闘している。

      妻はいま、ぼくらの共通の友人であるフルーティストの奈緒子さんや現地の他のミュージシャンを巻き込んでチャリティー・コンサートを企画している。コンサートのタイトルは「KA KE HA SHI」。会場はバンバリーの街の中央にそびえる美しいカソリック教会「St. Patrick's Cathedral」。ぼくが長々と説明するよりも、妻の作った案内文をそのまま紹介したい。






      この教会は数年前の竜巻で修復不能のダメージを受けてしまい、泣く泣く取り崩した古い良い教会だったんです。



      その頃私達はこの教会の近くに住んでおり、その一部始終を目撃していました。
      町を見下ろす一等地ではあるけれど、駐車場が狭かったり他にも問題があったのか、郊外に移転するような話も出ていました… ところがしばらくして教会再建が始まり、そしてついに1ヶ月ほど前にリオープンしたんです。
      この教会は私にとって、まさに再生のシンボルなんです。
      同じ天災によって取り崩しを余儀なくされた教会、地震と津波で深く傷付いた人々、私は両者に深い結びつきを感じ、コンサートを開くならここだ!と決めていました。
      カソリック教会はガードが堅く、三度断られましたが諦めずに説得を続けた結果、ついにコンサート開催こぎ着けました。
      出演者の一人の提案でドア・チケットを使ってラッフルをしようという事になり、地元の小売り店に商品の寄付を募ったところ、思いがけず良い反応があったりして本人かなりジーンときています。
      出演者はプロでも企画者がド素人なのですが、このコンサートはきっと良いものになります。
      パースからは遠いですが、お時間のある方はどうぞおいで下さい。
      お目に掛かれるといいな、と思っています。



      5月1日、西オーストラリア・バンバリー、このコンサートはとてもいいものになるはずです。ぼくもあの教会は復興のシンボルだと思っていました。妻はとても根気よく働きかけ、ようやく実現にこぎ着けました。わが妻ながらたいしたもんだと思います。

      その原動力は、「何かしたい!」という素朴で力強い気持ちだけなんだと思います。


      さて、そのコンサートから5日後の5月6日、キモノ・フルーティストの奈緒子さんが、今度は西オーストラリア大学で単独コンサートをします。これも東北・北関東の被災者の方々へのチャリティーコンサートです。

      彼女は芸名を「桃千代」といいます。いや、芸名というよりもリングネームと読んでもいいと思う。それくらい彼女は「桃千代」であることに体を張っています。気合いが入っています。で、そのコンサートのタイトルが「祈り Prayer」。

      ここもぼくが長々と説明するよりは、「桃千代」のホームページをご覧ください。ブログもやってます。友人だからというひいき目抜きに、彼女のフルートは素朴で奥深く、すばらしい。

      妻の企画しているコンサート、奈緒子さんの単独コンサート、どれもほんとうに聴きに行きたい。でも彼女らは彼女らの場所でがんばり、ぼくはここでもうしばらくがんばります。



      3時5分





      先日がれきと化した大槌の町を歩いてきた。

      がれきと一口に言うが、近くによって目を寄せると、がれきの破片ひとつひとつに名前がある。

      いまあなたがいる場所の回りを見て欲しい。
      もしあなたがいま暖かい部屋でパソコンに向かっているのなら、そこにはテーブルがあるだろうし、その引き出しの中にはペンがあり、ハサミがあり、物差しがあるだろう。テーブルの上には、ちいさなマスコットやちょっとした小銭や友達から来た手紙や買い物リストや、あるいは家族の写真が飾られているかもしれない。

      そのすべてが、このがれきの中にある。パソコンそのものも(破片となって)ある。

      台所にあるもの、居間にあるもの、玄関にあるもの、タンスの中身、なにもかも。車があり、自転車があり、オートバイがあり、バスがあり、トラックがあり、そして家そのものも破片となってあらゆるものと混在している。

      その、かつて名前のあった破片の中を歩いていた。

      時計を見つけた。居間によく見る置き時計だ。

      指し示す時刻は3時5分。

      地震があったのが2時46分頃といわれているので、津波はその20分後に大槌を襲ったのだろう。

      Every tiny single piece of the wreckage has its memory.
      がれきの中のどんなに小さな破片にも記憶がある。

      大量の記憶に埋め尽くされて、大槌の町は今日は雨に濡れている。

      2011年4月22日金曜日

      不公平

      昨日は、午後から休みをもらい、花巻で一泊してきた。温泉に入り畳の上でゆっくりと寝た。そしてまた昼には大槌に戻り、救護所に入る。

      釜石から大槌に至る雨に煙る帰りの道すがら、津波に呑まれた集落をいくつも見る。何度見ても、なんというか、自分の半世紀の人生の中での経験にまったく収まらない風景に、ぼくの頭脳と心は戸惑ってしまう。

      温泉宿で過ごしたたった一泊が、とてつもなく贅沢に思える。大槌のあの避難所の方たちの生活を見ているだけに、自分の体調を整えるためにとった休憩すら、後ろめたく感じてしまう。いやそうではないと分かっているのだけど、そう感じてしまう。

      大槌の避難所にしばらくいると、ここが世界の中心のように感じる。がれきに化した町。体育館に並ぶ無数の布団。冷たい床。あちこちで聞こえる咳。その他の世界(たとえば花巻の温泉)の安寧さの方が、ほんとうは「あたりまえ」のはずなのに、そこに住む人たちの心やすい生活に対して、心のどこかで不公平を覚えてしまう。そこに身を置いて安らかな夜を過ごした自分自身に対して、オレは不公平なことをしたんじゃないかと思ってしまう。

      それは違う違う。

      心やすい生活がほんとうだ。避難所にいる人たちも、心やすい生活に一日も早く戻らなくてはならない。それを助けるためにおおぜいの人々はここに来たのであり、それを実現するためにここに住み続けてきた人たちは今日も黙々と働いているのだ。

      不公平なのは、ここにいる人たちの境遇のほうだ。ある日突然波に呑まれ、避難所生活を送らざるを得なくなった。それこそが不公平な出来事だ。

      おそらく、これから先の自分の人生の中で、ここで見聞きしたことは自分自身の中心になるだろうと思う。生きるということは、先の分からない出来事の積み重ねであり、道理の通らない不公平なことがいつでも起こりえることであり、その不公平さをあるときはどうあっても引き受けざるを得ないのだということを。

      2011年4月20日水曜日

      基本的事実

      避難所での診療所でしばらく働いていると、だんだんとここに住んでいる人たちと顔見知りになる。ぼくら医療班は診療所に寝泊まりしていて、基本的に住民と同じような生活をしている。トイレも洗面所も共同、もちろん風呂はないし、食事も限られている。そんなふうだから、余計に住民と親しくなり、時には軽口をたたき合ったりもする。まるでコミュニティーの同胞のような感覚になることもある。要するに「仲間」のような感覚だ。

      でも、忘れてはいけない基本的事実がある。

      避難所にいる人は、全員が、ただ一人の例外なく、避難してきた人だ。
      あの地震、あの津波、あの火災、それから逃れてきた人たちだ。
      家を失い、帰るところのない人たちだ。
      大切な人を失った人たちだ。

      あの津波が、どれだけ恐ろしかったか、どれだけ怖かったか、どれだけひどかったか、いろんな人から聞かされた。押し寄せるがれき、襲いかかってくる波、黒い波の上で燃え上がる炎、びしょ濡れで過ごしたその夜の凍える寒さ、家族を見失った狂わんばかりの悲しさ、そして混乱。我が町が消えてしまうのを目の当たりにした人々。

      老人も、大人たちも、高校生も中学生も小学生も、年端のゆかない子供たちも、赤ん坊も、この避難所にいる人たちは、全員、それを生き延びてきた。そんな夜を過ごしてきた。

      それは忘れてはいけない、基本的事実だと思う。

      支援しに来た人たちは、もちろんぼくも含めて、彼らの中の一人ではない。あの体験を生き延びた一人ではない。ぼくらは、「ここを去る人」なのだ。

      それもまた基本的事実だ。

      問題が複雑に感じられるとき、その基本的事実に立ち返ると、解決への道筋が見えてくるんじゃないか思う。失敗して振り返り、ああそうだったと反省することもまだ多いけれど。

      2011年4月19日火曜日

      ボランティアがいる

      大槌町城山体育館避難所にも、おおぜいボランティアがいる。
      マッサージや足湯などのためにやってくる不定期の方々もおおぜいいるが、ここに腰を据えてがんばっているグループもいる。

      パレスチナ 子供のキャンペーン」という団体は、元来パレスチナの子供たちに対する支援活動をしていたのだけど、震災を受けた東北地方にまで活動の手を伸ばしている。避難所の子供たちの面倒を見たり(一緒に遊んだり、宿題を見てやったり)、津波で破壊された町から写真やアルバムを見つけてきては、それを綺麗にして持ち主に返す活動をしたり、あるいは何百人分という炊き出しを手配してくれたり、そのほかにも実に細々とした活動をしている。行政の手と目が届かないところを、とてもうまくカバーしていると思う。他のボランティア組織との連携も強いようだ。それに、なんといっても動きが早い! 

      もう一つここ大槌の城山でがんばっているのが、国際NGO 「Life Investigation Agency (LIA)」。彼らの活動はちょっと変わっていて、要するに「人間以外の動物の支援」を行っているのである。迷子の犬や猫を見つけて、その飼い主、あるいは里親を探す。避難所に入れられなかったペットの面倒を見る。怪我をした飼い主の代わりに、犬の散歩をしてあげる。地味だけど、その当事者や当事動物たちにとっては、本当にありがたい活動だと思う。じつは、彼らの活動はもっと広範囲に及ぶもので、実験動物に関することや絶滅危惧種の保護政策、そういったことを国際的な規模で行っている。見た目は地味だが、活動は国際的なのだ。


      岩手県生まれの、地元に即したボランティアグループ「岩手結っこ」も活動的なボランティア団体の一つ。これはなかなか強力な団体で、地元という地の利を生かして、質・量ともすばらしい活動をしてる。大槌町は花巻市圏が面倒を見るということになっていて、短期移住者の受け入れを初め、物的人的支援を早い時期から行っている。精神面のサポートも充実している。


      花巻よりもより近い遠野市にもボランティア組織がある。「遠野まごころネット」だ。ここも地の利を生かしてどんどん人を送り込んできている。先日は、大型のバス二台からたくさんの人が降りてきて、被災した家屋の片付けや泥出しをしていたところに出くわした。「遠野まごころネット」のジャンパーを着た人たちが黙々と働いているあのシーンを見たら、被災された人たちはきっとすごく力強く思うだろう。


      ひとりNPOでやってきたぼくが現在働いているこの仮診療所も、じつはボランティアによって運営されている。「沖縄県医師会」である。震災後わずか五日目にして第一陣が乗り込み、翌3月17日にはこの城山体育館に救護室をオープンした。それから一月以上、沖縄県医師会は常時複数の医師と看護師・事務を送り続けているのであるが、この活動はまったくのボランティア活動だ。本部の方では、大槌の医療体制が整うまで支援続けるぞ、という意気込みらしいから、なんというか、これはけっこう本気で腹をくくった支援と言えるだろう。ぼくは沖縄を離れてずいぶんになるが、元県民として、その心意気には感心している。


      医療ボランティアといえば、他県の医師会・医療団体もがんばっている。毎日夕方には、釜石市に近隣の医療団体が集まり、現状の報告と問題点、そして今後の活動予定について話し合っている。どこも熱気にあふれたチームだ。


      ほかにもたくさんの人たちがここを訪れ、なにかを提供している。それは物資であったり、労働であったり、気持ちであったり、声であったり、姿であったり。その人にできることを、その人にできる分だけやっていく。


      さらに大事なのが、日本国中から、いや世界中から寄せられる支援金と支援物資。
      それがなければ、なにも動かない。立ちゆかない。
      優しい言葉はひとを幸せにする力があるけれど、衣食住足りることがなによりも優先される場面というのは、現実として確実にある。それを支える具体的な力。


      その力が、日本中から、世界中から寄せられている。いまもまだどんどん寄せられている。


      この震災は信じられないくらいたくさんの不幸を招いてしまった。たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が大事な人を失った。


      でも、その痛みを(何百分の一かもしれないけれど)感じ、痛みのまっただ中にいる人たちのために自分の力を分けようとする人がこんなにもいる。


      そう考えると、この世の中は、そう悪くない世の中なんじゃないだろうか。





      2011年4月17日日曜日

      桜咲く

      朝、桜が咲いていた。
      突然の開花。
      六分咲きと言ったところか。

      「こんなところにも、春はくるんだぁ」と、ある人が言った。

      ここにも春は来る。


      城山の青い空、桜


      2011年4月16日土曜日

      難しい

      昨日、午後から一泊の休みを取った。
      タイマグラの古い友人の家に泊めてもらい、風呂と食事をふるまってもらった。
      十日ぶりの風呂。体も暖まり、心も暖まった。

      そしてまた現場復帰。
      醒めたというわけではないが、あれ、ちょっと違うぞと思う部分がある。

      二週間ずっとここに詰めていて、ああした方がいいんじゃないか、こうするべきじゃないかとか、悩んだり動いたり反省したり頑張ったり。前へ前へ、そんな感じだった。
      だけど、どうやらぼくの頭は少しカッカしていたのかもしれない。ずいぶんいろんなことに関わり、あっちに顔を出し、こっちに手を出し、だいぶ働いてきたと思っていた。

      しかし、たった一泊だけど離れてみて再び戻ってみると、やってきたことのいくつかは自分の勇み足だったんじゃないかと感じたりする。眼下に広がるあまりの惨状と、過酷な避難所の現実を見続けて、それを何とかしなくてはといった焦りがあったんじゃないか。生活環境、医療環境、これらを向上させるためには、これこれが必要に違いないなどと・・・、うーん、それもやはり勇み足か。

      ちょっと立ち止まろう。
      主役は誰か。

      「いる人」が主役であり、「去る人」は脇役だ。

      ここは一発、仕切り直しといくべきか。
      難しい。

      友人が言っていた言葉を思い出す。

      「熱い心と冷たいアタマ」ー A warm heart and a cool head.

      何かを成し遂げるときに必要なものなのだと言っていた。反芻してみる。

      2011年4月14日木曜日

      大槌町、被害風景

       津波の被害とは、溺水だけでなく、この圧倒的な破壊力にあると思った。
      砂浜で子供たちがいっしょうけんめい砂のお城を作る。
      でも波のひと寄せでそれは一瞬で崩れ去る。
      波の力とはそういうものなのだ。

       津波の直後、火災が町を襲った。

      とんでもない高さを津波は包んだ。 

      大槌町役場。
      ここで約30人の職員が亡くなった。町長も含まれていた。

      避難者に必要なもの

      一言に避難所といっても、いろんな避難所がある。
      ほんの少ししか見ていないのだけど、診察を受けに来る方たちに聞くと、たとえば職場の事務所に仮住まいをおいている人もいるし、お寺や老健施設、学校の教室や体育館も避難所となっている。廃校を利用して避難所としているところもある。もちろん、そういった避難所ではなくても、親類知人の家に身を寄せている人たちもいる。

      ぼくがいまいるところは、大槌町の中央公民館。町営の体育館も付属していて、城山体育館とも呼ばれている。町の中心部(かつて繁華街だった場所だ)から見ると、丘の上にそびえる白い大きな建物だ。

      東北の太平洋沿岸が地震と津波に襲われた3月11日の午後、この体育館に約600人の方が避難してきた。全員ずぶ濡れで、その濡れた格好のまま一夜を過ごしたという。しかも、津波によりプロパンガスのタンクからガスが漏れ、あっという間に火が噴き、それがガソリンスタンドや車から漏れたガソリンに引火した。その日はとても風が強かった。濁流に漂う家や木材が燃え、町のあちこちで同時に火事が起こった。

      火の粉は城山体育館の丘にも飛び火した。体育館の回りでは山火事が起こり、人々はまったくなすすべもなく火の行方を見守るしかなかったのだという。

      火事は翌日も続いた。

      幸い、降ってきた雪のおかげもあって火は鎮まったらしいが、津波に破壊された町のあちこちに、まるで爆撃を受けたかのような黒い焦げ跡が残った。

      地震と津波と火事。

      大槌の避難所にいる方々は、誰もみな、一人の例外もなく、老いも若きもみんな、それを生き延びてきた人だ。

      そういった人たちが、いまだに「避難所」で暮らさなければならない理由をぼくは知らない。この方たちには、修羅場を生き延びてきたということで、最大限の安息と慰安を与えらるべきだ。あの巨大な打撃のあとに、どうして今のような物理的精神的ストレスが加えられなければならないのか。

      震災後、はや一ヶ月がたつ。

      ぼくらはここで医療スタッフとして働いているが、ここに本当に必要なのは医療ではないような気がしている。

      (画像を追加したのだけど、なんだかうまくいきません。後日アップロードします)

      2011年4月9日土曜日

      大槌町城山体育館避難所

      さて、城山体育館避難所は大槌町を見下ろす丘の上にある。

      4月9日現在の避難者は約270名。その方たちは、1階の体育館と2階の武道場に別れて生活している。広大なスペースに仕切りもなく、段ボール箱で区切っただけのエリアに布団を敷いて、それが一家族の生活の場所。子供も大人も老人も同じ。3月11日の地震・津波・火事から逃げ延びた人たちは、その日からずっとここで生活をしている。

      大槌町は、この体育館のほかにもたくさんの避難所があり、合計32か所。そこに約2500人が生活している。現在の住民数がほぼ1万人なので、4人に一人が避難所にいるということになる。

      確認されている死亡者数は600人近く。行方不明者は、ひと月が経つ今でも1000人以上。

      城山体育館から大槌の町が一望できる。
      ぼくはこの風景を毎日眺め、自分がここにいる理由と気持ちをリセットしている。

      手前にあるのは町を見下ろす墓地。
      真下にある寺の本堂は避難場所の一つだったが津波とそれに続いた火事で、
      大勢の避難者が亡くなられたとのこと。

      2011年4月8日金曜日

      最大余震 震度6弱

      昨晩11時半ごろ、大きな地震がありました。

      ぼくにとっては生まれて初めての大きな揺れだったけど、こっちの人たちにとっては、あまりびっくりするようなことではないようで、慌てている人はほとんどいませんでした。揺れがおさまるやいなや避難所内の見回りをしましたが、避難してる人たちも、医療スタッフも、怪我なく皆元気です。

      しかし、その後の停電は今日の午後まで続き、携帯も使えず。

      3歩進んで2歩下がる、という感じです。それでも1歩は進んだわけですが。



      本日、山奥の巡回診療に行ったさいの写真。巨石が道路の真ん中に。

      2011年4月7日木曜日

      岩手県大槌町

      4月3日、日曜日に岩手に入った。
      今回の津波被害が最も大きかった地域の一つ、大槌町に行く。

      大槌町は沖縄県医師会の医療スタッフが震災後すぐ(3月16日)に入って支援を始めた場所で、ぼくもそのチームのメンバーに入っている。正式には4月16日から一週間というのが、ぼくの派遣期間なのだが、いくつか物資を届けるものがあったので、まずそこに立ち寄ったのだ。それに、そこにはぼくの古くからの友人、山代ドクターもいる。兄弟ともに親しい友人なので、ぼくは彼を山代兄と呼んでいる。

      運転席以外まったく隙間なく物資を詰めたマツダMPVは、北上から遠野を抜けて、狭く曲がりくねった山道を上る。車体が沈み込むほどの重量なので、加速減速カーブ、すごく慎重だ。峠を越え、雪の残る細い山道を降りていく。谷川が見えてきて、民家がぽつりぽつりと回りに現れる。

      と、突然、土砂にまみれたがれきが谷川に現れた。なんだなんだと思うまもなく、崩れた家や大破した車、無数のがれきが辺り一面に広がる。前触れなく、突然の光景だ。

      もしなんの情報もなくこの光景を見たら、人はこれを津波の被害ではなく、空襲の後だと思うだろう。

      徹底的に破壊されている。執念深く、ありとあらゆるものが破壊されている。

      2011年4月1日金曜日

      準備終了

      本日は、朝より支援物資の受け取りと仕分け、それと買い出しを終え、おおかたの準備を整える。

      本日の到着分は、沖縄北中城若松病院よりマスク・手袋・ナプキン等。それとパースのルーカスさんからは長野経由で大量のペットボトル水・米・生麺。島根の典子ちゃんからは大量の乾電池、ヘッドライト等。妻の両親と、義母の元教え子の由美子さんからは、クイックルワイパーなどのお掃除道具三セット。今日もたくさん集まりました。みなさんありがとう。

      沖縄、島根、長野、東京、そして銚子の各地から集まった援助物資は、段ボール箱二十個を超えた。当初予定していたパジェロ一台には収まらないのは明らかだ。

      そういうわけで、明日はパジェロとスズキ軽の二台で水戸の北にある友部に向かう。妻の両親も一緒に水戸まで来てくれることになった。友部で妻の弟の車に物資を乗せ替える。弟は8人乗りのファミリーカーを持っているのだが、「はじめさんは、車で寝泊まりするって言ってるんだろ、じゃあ、パジェロは狭すぎるよ」と言ってくれ、彼がその車を貸してくれることになったのだ。今日電話で聞いたところ、義弟は車の二列目のシートを取っ払い、三列目を完全に床に埋め込み、巨大なフラット空間を作ったのだと。「長さが二メートルあるから、はじめさん、思いっきり寝られるよ」と。

      (ここで、いま余震あり。・・・すぐにおさまった。)

      義弟のおかげで、ぼくはたくさんの物資を運ぶことができ、しかもキャンピングカーとしても利用できる。出発前はテントを用意していたのだが、それを使う必要はなくなった。食料もたくさん用意したので、避難所の方々の貴重なスペースにも食料にも手を付けずにすむ。よかった。

      ちなみに義弟は水産食料品会社に勤めていて、被災地に向けて食糧品の提供もしたいと言ってくれている。そこのレトルトおでんは、以前ぼくは南極にも持って行ったことがあるのだが、原住民に大好評だった。

      さて、大槌町に沖縄県医師会の医療チーム先陣隊として行っているドクター山代兄より、昨日注射用抗生剤の注文が入った。さっそく銚子市医師会に連絡して、手配できないかと相談していたのだが、銚子でも医薬品が十分に出回っていないということで手に入らぬと、本日連絡があった。しかし、最近のぼくはあきらめが悪いので、銚子の医薬品卸問屋に直接電話。残念ながら、注射薬は在庫においていないということであった。昨日電話していれば、千葉本店から手配できたものを・・・、と悔しがる。

      しかしまだ負けぬ。今度は水戸の卸問屋に電話を入れる。二件目にかけたところに、なんと在庫あり。さっそく「沖縄県医師会」の名のもとに注文して、明日午前中に取りに行きますと伝言した。やはり、大事なことは人任せにせず、自分で動くべきなのだな。

      と、思っていたもつかの間、一時間後にその問屋から電話あり。水戸保健所の「指導」により、たとえ医師であろうとも医師法に基づき直接販売はできないということになりましたと。もしどうしてもというのなら、沖縄県医師会から水戸市医師会に依頼をしてもらい、水戸市医師会から発注というふうにしてもらわないと困るのだと。

      はあ? である。

      いやいやいや、これは被災地で起きている出来事であり、そんな悠長なことは言ってられないのですよ。問題のポイントがぼくにはわかりません。都道府県をまたいでの医薬品の売買は震災後の臨時措置で認められているわけだし、もし所属団体が発注するべきだというのであれば、ぼくの所属する沖縄の病院長から直接発注という形で十分じゃないでしょうか。

      対応しているおねえちゃんは、明らかに困っている。彼女は、個人としてぼくの(つまりは被災地の方々の)応援をしているのであるが、彼女の「上」が必要以上に問題を大きくしているのだ。

      「わかりました、そのことをまた相談してみます」と彼女は言って電話を切った。なんとかぼくの要望に応えたいと明らかに彼女は思っている。

      うわあ、しっかし、久しぶりに腹立ったなあ、と思っていたら、再びドクター山代兄からメール。「こっちの開業医さんのルートで明日手に入ることになりました!」と。ありゃりゃりゃりゃ、先ほどの彼女に慌てて電話して、すんません、たったいま解決しました! まあ、なにはともあれ、よかったではあるが。彼女もとても喜んでくれていた。

      しかし、なんだろうなあ、ある目的を達するために手を尽くすということを、どうしてある種の「力のある」人たちはやってくれないんだろう。ぼくのような人間より保健所の人や医師会の人というのは、ずっと力がありネットワークも広いはずだ。「できない理由をさがす」より「できる方法を見つける」ことに力を注いでくれれば、世の中はもっと過ごしやすくならないか?

      ましてや、いまは非常時なのだ。普通の人がおろおろとするこの時に、いわゆる専門家はよしとばかりにプロの視点でさまざまなルートを開拓し、困っている我々をすくい上げるべきではないのか? できるはずだ。やれば、できるはずだ。

      今回のこの個人的プロジェクトの中で、まず第一に学んだことは、巨大な組織は動きが遅いということ。彼らはまず自分をプロテクトすることから発想と行動を始める。柔軟で素早く、そして時にびっくりするような集中力を示すことができるのは、個人の力だ。

      だけど、残念なことに、その個人のびっくりするような力を巨大な組織は削いだり押しとどめたりするのだ。

      さ、明日は早い。これでもう寝ます。
      次ブログを更新できるのはいつになるか分かりません。
      おやすみなさい。

      2011年3月31日木曜日

      資金援助について

      前々回のブログで、資金援助のことをきちんと書きますと言いました。

      いろいろ考えました。前々回、ぼくは役割分担ということでいいじゃないかというようなことを書きましたが、よく考えると、そう単純じゃないということに気づきました。

      結論から言うと、不特定多数の方に向けて資金援助を募ることは、今回のぼくの活動にはそぐわないと思いました。

      これは、まったくもって、ぼく個人の思いでぼく個人が始めたことです。もちろん家族の理解と職場の応援があってのことだということはとても重要なことです。大事なのは、「一人の人間」がそうしたいと思いそうしているだけだということです。

      それはつまり、その一人の人間の事情で、いくらでもこの活動は変化する可能性があるということです。

      たとえば、ぼくが東北に向かう初日に交通事故にでも遭ったとしましょう。そうすると、このプロジェクトはこれでお終いです。ぼくの意志も準備も、すべてそこで途切れてしまいます。もしこの活動に、「不特定多数の方」の寄付金が注ぎ込まれていたとしたら、ぼくはその人たちの願いを叶えられなかったことになります。いとも簡単にそういうことは起こりえます。

      極端なたとえに聞こえるかもしれませんが、つまりは、個人の活動、もっといえば、万が一の時にバックアップがとれないレベルの活動には、不特定多数の方々の資金援助はそぐわないんじゃないかと思ったわけです。

      さらにいえば、そういった資金をいただくことによって、ぼく自身の自発性のようなものも少し変化するような気がしました。期待とか信頼とか、そういったものが人を勇気づけることはよくわかります。と同時に、精神のしなやかさが少し歪んでしまうのも否めないと思うのです。もちろんこれはまったく個人的な感じ方なので、ぼくだけが感じることかもしれません。

      そういったことを考えると、不特定多数の方の資金援助は、少々のアクシデントがあろうとも、その意志と目的を完遂できるシステムを備えた「ボランティア団体」になされるべきだと思います。ぼくは「団体」の主催者でもなければメンバーでもありません。そういった団体に寄付をすることの方が、実質的に被災者の方々へのより実効のある援助につながるのだと確信します。

      そういうわけで、ぼくは不特定多数の方への資金援助のお願いはやめにしました。基本的にこれはぼくが勝手に始めたボランティアです。ある程度の自腹はもとより覚悟をして始めたことです。

      ただし、現実的には、何人かの友人から援助を受けました。いわゆる「カンパ」というやつです。彼らはぼくのことをよく知っていて、友人としてぼくを信頼してくれていて、もちろんぼくが個人としてボランティアに行くというストーリーとその背景もよく理解してくれています。ぼくはそのことをとても嬉しく思うし、ものすごく感謝しています。ぼくは友人らからのカンパをありがたく受け取りました。

      友人からのカンパは、「不特定多数の方」からの資金援助とは異なります。ぼく個人だからこそいただいたカンパという背景と、「不特定多数の方」の被災地の方々を援助したいという思いとはベクトルが一緒ではないと思います。

      そういうことなので、ぼく個人に当てる資金援助は、ぼくをよく知る友人だけとするのが妥当だろうと結論を付けました。今朝、妻ともよく話しました。彼女もぼくとほとんど同じようなことを考えていました。

      もう一点だけ。
      カンパであろうとお金をいただく以上、いつどこで何に使ったということは、一円なりとも記録して後で報告すべきだと思っていましたが、それは実際問題無理だと思い直しました。領収書はとりますが、震災で被害を受けたところで使うお金にすべて領収書がもらえるわけがない。そうでなくても、日々の生活の中で領収書のない金銭のやりとりがいったいいくつあるか。もし領収書を徹底的にとったとしても、そのことやそれを記帳して報告するという手間はけっこうなものになるでしょう。そんなことに労力をさくことで本来の仕事に支障が出るとしたら、いったいぼくは何をしに行ったんだということになります。本末転倒ということにもなりかねません。

      そういうわけなので、概算としていくら使いましたという報告はしますが、一円単位で報告すべしと言うような無理なことはできません。なんせ一人でやっている仕事なのですから。それも含めて、会計の専門家がいて後方部隊もいるといったボランティア団体にこそ、一般の方からの募金は向けられるべきだと思うのです。

      だいぶ長々と書いてしまいましたが、これが募金に関するぼくの結論です。
      一般の方々からの募金は、ぼくのような個人活動ではなく、しっかりとしたシステムを備えたボランティア団体に向けられるべきだと強く思います。その方が、被災者の方々にとってよりメリットがあると思います。

      今回のことで、ぼくはお金をいただくと言うことがどういうことなのか、けっこう真剣に考えることができました。こういった機会はそうありませんでした。これも生きていく上での学びの一つですね。勉強になりました。

      帰国

      昨晩遅く銚子に着いた。妻の実家である。早朝から夜までのフライトはしんどかったが、なんだか目がさえて12時を回ってもまだ眠れなかった。

      11時頃、義父母とお茶を飲んでいると、地震があった。初め突き上げるような感じで、そのあとゆっさゆっさと来た。家の壁がきしんだ。義父母に言わすれば、これは小さい方の余震だということだが、長い間オーストラリアにいた自分にとって、ものすごく久しぶりの揺れで、緊張もしたし乗り物に酔ったような気分の悪さも感じた。
      この程度の揺れで、これだ。そのとき、いったいどれほどのことが起きたのだ?

      ぐっすり寝て、今朝は朝からさっそく行動。まず市役所。住民票を入れて国民健康保険に入る。帰国の事情を話すと、信じられない早さで対応してくれた。郵便局で口座関係のことをすませ、福祉協議会というところに行って、「ボランティア保険」というものに加入。なかなか充実した保険内容なのだけど、なんと一番高いプランで年間720円。入らない理由がない。それを済ませて、今度はドコモ。携帯電話は今後の活動のライフラインになるのだから。

      午後はスーパーと薬局で買いだし。しめて4万円。自分の食料分と、現地の子供たちへのお菓子など。

      家に戻ると、十数箱の段ボールがラウンジルームに積まれていた。4カ所の宅急便屋から荷物を受け取った義父はびっくりしていた。
      沖縄若松病院からの荷物は大量の大人用紙おむつ。それとミネラルウォーター。水は銚子のどこに行ってもなかったから、これはほんとにありがたい。被災地の小さな子供のお母さんたちにお渡ししよう。
      パースのルーカスさんからは食料やペットフードなど。ペットのいる方にはありがたいものだと思う。
      隠岐の島の高梨先生からは長靴。電池、食料。長靴のサイズがぴったりだった。
      アウトドアのモンベルで働く智子ちゃんからは、最新式キャンプ用ガスコンロとガスカートリッジ。それとドライフード、マスク、ヘッドランプ。嬉しい。

      続々と支援物資も集まる。明日最終調整をしてパッキング。土曜の朝にここを出る。

      2011年3月29日火曜日

      出発

      もうそろそろ家を出ます。
      明日早朝5時半の飛行機なので、今日のうちにパース行っておかねばなりません。

      今日も朝から、ほんとに大勢の方から援助の申し出と、ぼくの足りない部分に対する助けを得ました。一人の思いから始めたことですが、この活動はみんなの力がなくては一歩も前には進めなかったと思います。まだ本当の「始まり」には至ってませんが、助走はしっかりとできています。

      成田着は明日の夜になります。銚子の妻の両親が成田まで迎えにきてくれます。銚子に着くのは夜も遅くでしょう。一晩しっかり寝て、また木曜の朝から、準備を始めます。ブログもその時に更新します。

      資金援助の申し出がほんとにたくさんあり、ぼくは初め面食らっていました。でも、実際行って身体を動かすのはAさんの仕事、その活動を資金や物資で支えるのはBさんの仕事、といった役割分担だと考えれば、思い切って、そして感謝しつつ受けることにしました。今回は、ぼくがたまたまAさんの役回りだったということです。

      そういう考えに至ったので、次回のブログに、ぼくの銀行口座の詳細を載せようかと思っています。でも、お金の関わることは、とても慎重に考えるべきなので、もう少しきちんとした文章を次回書きたいと思います。

      ほんとにみなさん、ありがとう。
      それでは行ってきます。

      2011年3月28日月曜日

      出発日決定

      出発日が決まった。
      3月30日水曜日。カンタス航空・早朝5時半。

      今朝カンタスに、スポンサーシップを依頼するファックスを送り、その二時間後に電話を入れた。なかなかその担当部署につないでくれなかったのだが、ようやく探し出して担当者と話をした。しかし先方は「検討して連絡するから」と言うばっかりで、初めまったくとりあってくれない。通常3週間の検討期間をいただいておりますなんて仰るのだが、いやいやいやまってくれ、これは一種の緊急援助なので、今すぐ決めて欲しいんです! とまくし立てつつねばった。じゃあちょっと上司と・・・、こちらから折り返しお電話を・・・、なんてことのあったあと、400ドルオフならいけますと返事が来た。ええ?たった? しかし、これまであたった他の航空会社はまったくダメだったし、旅行会社も難しかった。ここらで手を打つべきか?
      仕方ない、これで行こう!と覚悟を決めた。なぜならぼくには、行かないというオプションはないのだ。
      そう決心した瞬間、一つのメールが飛び込んできた。パースに住む方だが、ぼくにはまったく面識のない方だ。金銭的な援助は必要ないでしょうかという内容。航空券に支払う金額に腹をくくった直後に、突然こういったメールが届いたので、ぼくはもうジンときて泣きたくなってしまった。共時性というフロイトの言葉すら思い出す。

      フルーティストであり作曲家である奈緒子さんとその愉快な仲間からも、資金援助をしてもらえることになった。彼女たちもすごく積極的にパース市内で街頭パフォーマンスをしていて、そのドネーションの金額ったら、ちょっと驚きだ。パースの人たちの日本の被災者の方々に対する熱い気持ちは感動的ですらある。
      彼女の行動の詳細は以下に詳しいです。

      銚子市医師会からも返信あり。具体的に必要な物品が分かれば、協力できると。

      岩手県タイマグラの友人からメール。タイマグラの小さな村の給油所にもガソリンがようやく届きましたと。状況はどんどん変化している。いい方だけに変化していることを願う。

      その他にも、とてもたくさんの方々から援助の申し出あり。いちいち感動する。
      現地の状況を知らせてくれる方もいる。いろんな提案もいただき、ほんとにありがたい。

      朝から荷物の仕度。基本的には「自分の身は自分で面倒を見る」わけで、寝袋・テントなどといった、キャンプ道具一式。現地で被災者の方の毛布を借りるわけにもいかないだろうて。防寒対策もしっかりと。向こうはゴールデンウィークが明けるまでは雪の準備は怠ってはいけないと言われた。

      しっかり準備をしているつもりでも、次から次へと問題発覚。発覚したからには対処しないといけないわけで、そういうわけで、今日のブログはこれにて。

      2011年3月27日日曜日

      帰国支援計画ー6

      毎日の出来事があまりに多すぎて、ブログへの記録がまったく追いついてない状態。
      出発準備に忙しくなってきたので、経過や詳細はすっ飛ばして、決まったこと、保留事項、問い合わせ中などをメモとして記録する。

      決まったこと(希望含む)
      • 沖縄県医師会からの派遣:4月15日から22日まで。岩手県大槌町の予定。
      • 銚子に住む妻の両親に連絡。義父のパジェロを貸してもらうことになった。支援物資を銚子で積み込み、北に向かう。おそらく4月2日ごろ発てるだろう。沖縄県医師会への合流までは、岩手の医療機関と提携を持ちたい(これはまだ決まってないことだけど)。
      • 岩手の友人より、宮古の近くで奮闘している黒田ドクターの話を聞く。行政機能はマヒ。国境なき医師団が入っているらしいが、短期の支援の可能性。ぼくがあとを継ぐか? 詳細の連絡待ち。
      • 病院の事務局のサム(かっこいい女性です)が、病院スタッフに対してチャリティーを募ってくれた。ぼくからもスタッフに手紙を書いて、彼女にメールで転送してもらった。ぼくの下手な英語をサムが添削してくれたのだが、すごく心を打つ文章に変わっていた。感謝。募金はまだ続いているようなので、来週初めにでも病院にチャリティーをもらい受けてくる予定。病院内でいろんな方に声をかけられた。「がんばってきてね」とか「あんたはすごい」とか。手紙をくれる人までいた。実のあるものにせねば!
      • サムの計らいで、地方新聞のインタビューを受けた。来週木曜の配達なので、ぼくがみることはできないだろうが、読者の方々にオーストラリア赤十字経由で日本の震災地へのドネーションをお願いしますと伝えた。ちなみに募金アドレスは:"WA is here for you"
      保留事項・問い合わせ中
      • カンタス航空より申請用紙がとどく。ただでチケットが欲しいのなら、これにキチンと書きなさいと。用紙が届くまでに1週間。大きな会社は動きが遅い! ぼくは英語が下手なので、翻訳家である妻に「心を打つ文章」を依頼。明日月曜にファックスして、すぐさま電話を入れる予定。絶対に説得してやるぞ。
      • 昨日、銚子市医師会に連絡。銚子を発つ前に、医薬品や衛生材料のドネーションがいただけないかと。返事待ち。期待している。
      • 岩手県医師会、宮城県医師会、福島県医師会、それぞれに「医者いりませんか?」のメールを入れてみたが、やはり現場はそれどころではないようで、ほとんど返信なし。1ヶ所だけ、いまそれどころではない、という内容のメールが返ってきた。煩らわせてしまったことを反省。草の根的にすべきだった。

      2011年3月26日土曜日

      ところで略歴など

      このブログはつい先日始めたばかりで、友人や知人に対する報告の意味合いと、自分に対する記録を兼ねたものだ。ところが、あちこちにメールを送っているうちに、これは自分のやろうとしていることの「証明書」のような役割も担っていることに気付いた。青森の中村さんからは、もっと使える可能性がありますよとの提案も受け、それならばと、とりあえずは履歴書のようなものを書いてみる。

      山内肇(やまうちはじめ)男
      1961年 沖縄県読谷村にて生
      1989年 琉球大学医学部医学科卒(3期生)
      同年 沖縄協同病院にて研修開始
      1991年より93年 第33次南極観測隊にて越冬(医療担当)
      1994年 島根県隠岐病院にて内科担当
      1996年 オーストラリア移住
      (そのときよりしばし医療を離れ物書きとなる。とはいえ、その間3度南極観測隊の夏隊に医療担当として参加)
      2008年 西オーストラリア州 Bunbury Regional Hospitalにて十数年ぶりに医療現場に復帰。異国の地で研修医として再始動。苦労す。
      2010年より現在 西オーストラリア州 Peel Health Campus にて内科病棟研修中

      将来の予定としては、ここオーストラリアでGP(家庭医)の資格を取って開業すること。
      代替医療や栄養療法を学んできたので、これまでここで築いてきたネットワークを生かし、いわゆる統合医療をしたいと考えている。
      だが、まずはその前に二つ目の国家試験(臨床試験)をパスする必要がある。

      妻1人、子供3人(息子・娘・娘)の5人家族。さらに犬1匹、ニワトリ3羽、カナリア1羽。
      特技・趣味としては:大工少々、マック使い、役者も少したしなむ。普通自動車・中型二輪免許あり。

      こんなところです。
      家具が作れるところが、自分としては売りだと思っています。

      帰国支援計画ー5

      初めに書いたように、ボランティアなら6週間。それ以上ならなんらかの収入を得つつ3ヶ月までーーー、これが妻との同意事項かつ条件となった。自分としてもリーゾナブルだと思う。もちろん妻と子供たちはオーストラリアに残る。

      そのことを高嶺先生にメールした。週末なので週明けまでちょっと待ってくれとの返信。
      業務の再開する月曜日が待ち遠しい。これできっと行けるだろう。

      月曜日。期待していたのだけど、高嶺先生からのメールによると「数ヶ月の採用だとしても、職員として体制を組むのが難しい」ということとなった。そうか、ああそうだろうなあ。当事者の気持ちを考えれば、理解できる。

      ところで・・・、と高嶺先生のメールが続く。
      沖縄県医師会が医療チームを現地に派遣しているから、そこに参加するという方法を取れないだろうか、と彼の提案。ぼくはどんな形でもかまわない。よろしくお願いします、だ。

      さっそく高嶺先生が直接沖縄県医師会に連絡を取った。と同時に、ぼくらの共通の友人である喜納先生にも連絡を入れてくれた。開業医である彼の医院に、ぼくの籍を置くことで「沖縄県からの派遣」という形が取れやすくなるんじゃないかという理由。琉球大学出身で沖縄で働いた経験があるとは言え、ぼくは現在オーストラリアにいるのであり、県医師会とのかかわりはまったくないのであるから。十手先まで読んでいる高嶺先生に感謝。

      翌日には、喜納先生からもメールが届く。できる限り協力すると。彼もとても心を痛めていて、ぜひ現地で支援活動に参加したいのだけど、開業医であり在宅患者を抱えている身なので、どうにも動きが取れないのだと。そういうわけだから、どんな形でも協力は惜しまないのだと言ってくれた。卒業以来20年は会っていない同級生の言葉に、嬉しくて涙が出そうになった。

      沖縄県医師会の上原さんからメールが届く。高嶺先生から連絡がありました、これから検討します、という内容。ぼくはもう、熱意のありったけを書いて返信メールを送った。

      と同時に、航空会社にメールを送る。単刀直入に、オーストラリア・成田間の往復チケットを一人分くれと。あなたの力で、一人医者を送ってください的に、もちろんすごく丁寧に。たのむぞカンタス!

      帰国支援計画ー4

      Twitterで、沖縄の友人(山代兄)が支援のことをつぶやいていた。さっそく問い合わせる。
      すぐさま彼から、それなら沖協の高嶺先生が情報を持っているはずだと返事。高嶺先生ならぼくのかつての同僚だ。もう間髪入れずに連絡。沖縄民医連が東北に応援を送っているので、そこの病院の支援に参加すると言う形でいけるだろうとの返事。しかしともかく、どれくらいの期間支援可能なのかを知らせてくれと。

      どれくらい行けるか? 1週間、2週間? 1ヶ月? あるいはもっと?

      ぼくの仕事はカジュアルワークなので、休むと収入がまったくない。有給休暇などというすてきなものは付いていないのだ。貯金を食いつぶしつつここを離れるとなると、どこまで可能か?

      さあ、そうなると自分一人で決めるわけにはいかない。そろそろ妻と話しあうときが来た。
      その内容は一番初めに書いた「帰国支援計画ー1」に。

      それが土曜日。
      ここまでが最初の1週間だった。

      帰国支援計画ー3

      実は、震災のあった日、ぼくは「これはもうとにかく行くしかないだろ」と思っていた。
      その日は夜勤で、夜11時に仕事を終えて、100キロの距離を運転しながら家に戻る途中、ずっとそのことを考えていた。明日にでも飛行機に乗って成田に行き、寝袋の入ったザックを担いで現地に行こう、と思っていた。

      なかなか眠れなかったが、とにかく休んだ翌朝、オーストラリアのテレビチャンネルから流れるニュースとインターネットからのニュースをむさぼるように見た。

      新聞やテレビからは、とにかく現地はたいへんなことになっていて、町がまるごと流されたとか、かろうじて逃げてきた人たちが避難所でいかに悲惨な状況にあるかということが、これでもかこれでもかと流されていた。なにが足りないとかいうのではない、何もないのだ。信じられないくらい大勢の人たちが、何もかも失ったのだ。もう、言葉を失った。

      医者が足りないなんて言うレベルの話ではなかった。水、食べ物、生きるためにまず必要なものがない。まずそこだ。ぼく一人がひょっこり現れて何かができるなんて、これはあまりにも非現実的で甘い考えだ。たぶん、邪魔になるだけだろう。いや、それ以前に、なんの準備も後ろ盾もない自分は、きっと現地に入ることすらできないに違いない。熱意の空回りだ。

      これは腹をくくるべきだと思った。

      どのタイミングで、どういう形で行くのがいいのか。

      いま現場で必要とされているのは、おそらく「熱意」よりも「効率」だろう。より実効のある支援がこそが求められているに違いない。

      よし。それなら、よく調べて、よく考えて行動しよう。自分の持つ、小さくて限られた力をなるべく効率良く使ってもらえるようにしよう。

      その視点で、もう一度ニュースやインターネット上の情報を眺め直した。

      帰国支援計画ー2

      月曜に仕事に行くと、ポケベルが鳴った。Samからだ。

      「ハジメ、メール受け取ったわよ。ロスターのことは心配しないで。何とかなるから。それより、病院のスタッフにわたしからドネーションを募ってみようか? この病院から直接支援に出る医師がいるとなると、きっとたくさんのスタッフが協力してくれると思う。どう思う?」

      なんということだ。どう思うって言われても、ぼくは「ありがとう」としか言えないじゃないか。
      「じゃあ、メールを私が書いて、全スタッフに送っとくから」

      彼女のその親切に、ぼくはちょっと泣きそうになった。

      「Sam,ほんとにありがとう。日本国民を代表して、君にありがとうと言わせてくれ」
      いつもよりブロークンな英語でぼくはSamにそう言った。

      ものごとは、決心と行動でいかようにも動くのだ。
      決心は人を揺さぶり、行動は人を動かす。

      帰国支援計画ー1

      ずっと考えていたことだけど、先週の土曜日の夜、妻に言った。

      「おれ、しばらく被災地に行ってこようと思っている」

      ぼくの人生は、気がついたら「決めてから伝える」というパターンだった。何かを相談して決めたり決めなかったりということは、ほんとに少ない。親にも妻にも、重要なことはいつも自分で決めてしまう人なのだった。だから、今回のこの決心も、反対されたとしてもぼくは行くぞという気持ちのもとであったのだった。
      もちろん、反対される理由はいくらでもある。まず、どうしてわざわざオーストラリアにいるあなたが行かなくちゃいけないの、あるいは、あっちは放射能とかであぶないでしょ、なんてことも。その間の私たちの生活は? 収入はどうなるの? という理由だって充分正当である。
      しかし、どんな反対があったとしても、ぼくの気持ちは固まっていた。つまり「向こうにいる人たちのことを考えると、苦しい」のだ。これ以上の行きたい理由があろうか、いや行かねばならぬ理由があろうか。

      そんなこんなを0,5秒くらいの間に考えていると、妻は言った。
      「いいよ。いつそれをあなたが言うかと待っていた」

      ものすごくあっさりと、気が抜けるくらいあっさりと妻が言った。

      「うん、じゃ、行ってくる」

      そんなこんなで、アッと言うまに具体的な話へと。
      一番の懸案は収入の途切れることだ。わずかな貯金と照らし合わせた結果、

      1.完全ボランティアなら6週間が限度
      2.もし現地で収入が得られるのなら3ヶ月までOK

      というコンセンサスを得た。
      あとは、職場だ。月曜日、さっそく事務課のSamにメールを送る。こうこういう理由で、ぼくは日本にしばらく戻ります、つきましては4月のロスターから、ぼくの名前をすべて外して下さい。他の医者にしわ寄せが出るのは分かっているが、ぼくはもう決めたのである。