2016年4月28日木曜日

難民国家日本

毎年3月11日には、このブログに何かを書いてきた。今年もそうしようと思っていたのだけど、どうにもありきたりの言葉しか出てこず、ぼくは書くのをやめた。
でも、3.11の頃からある言葉が頭に浮かんでいて、もやもやとした気持ちでいた。
今日、なんとかそのことをまとめてみた。
もしよければ、少し長い文章だけれど読んでいただきたい。

----------------

「難民」というキーワードを用いて、戦後の沖縄と原発事故避難者の方々の現状を語っておられる方がいる。精神科医の蟻塚亮二さんだ。
秀逸な考え方だと思った。
難民とは一般的に、災害や戦争などによって住処を奪われ避難してきた人たち、あるいは宗教や民族、政治的差別に基づく迫害から逃れてきた人たちを指す。今まで生きてきた場所と生活の基盤を暴力的に根こそぎ奪われる、それが難民だ。
例えば最近では、国内の政治的対立や大国による無差別空爆の起きているシリアから、何百万人もの難民がヨーロッパ諸国に押し寄せているという。
少しさかのぼれば、宗教と民族と言語の壁によって内側から完全に破壊された旧ユーゴスラビア、それから何十年も終わることのない内戦の続くスリランカ、他にもたくさんの国や地域から多くの難民が世界中に溢れてきた。
難民とは世界のほとんどの国にとって、いつのときも進行形としての問題である。人道的観点から隣国の難民を受け入れるべきだという意見と、いや自国の経済や安定を守るために門戸を閉じるべきだという意見の狭間に、近隣の国は立たされることになる。高度に政治的かつ人道的な問題、それが難民問題だ。
僕の住んでいるオーストラリアでも、この問題に対する議論は終わることがない。奇しくも今日は国会でナウル島難民収容キャンプにおける非人道的な運用に対して大々的な委員会が開かれた。ある国会議員が「私たちは彼らをすでに十分に苦しめてきた。こんな馬鹿げたことはいますぐやめるべきだ!」と政府の対応を質した。その言葉は多くのオーストラリア人に支持されている。
ひるがえって、日本や日本人にとって「難民」という言葉は遠い対岸の話にすぎない、と僕には思える。
おそらくあなたの横にも近所にも、戦禍や迫害から逃れてきた異国の人はいないだろう。いないように見えるだろう。
でもそれは違う。
日本は難民に溢れている。しかもとてつもない数だ。
戦後の沖縄。過酷な地上戦を生き延びた住民たちのほとんどが、その戦火で家族や家を失い、しかも敗戦の後、米軍による強制接収で多くの人が土地さえも失った。のみならず64年前の今日1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約で日本はアメリカに「日本国」の平和と安定を引き換えに琉球奄美諸島を手渡した。こうして南西諸島は数十万人の難民を抱える実質的な巨大難民キャンプとなった。歴史的に沖縄奄美は「元日本人」を抱えた難民収容所として戦後を生きてきることになったというわけだ。
そして、アメリカ政府の圧政の元で20年を生き延びた琉球難民キャンプは祖国復帰という名の下で、今度は日本政府による懐柔的圧政に甘んじることになる。今の沖縄を見れば(特に辺野古や宜野湾基地問題)、いまだに沖縄は難民キャンプとしてしか見なされていないのではないかと思う。幾重にも包装紙に包まれ、色とりどりの飾りのつけられた、難民たちの島。
そして2011年、東日本大震災。いったいどれだけの人が家と家族と土地を失ったか。地震、津波という天災の後、数ヶ月ものあいだ公民館や体育館で避難所生活を強いられ、その後は仮設住宅。その生活ももう5年になる。被災者という言葉は事実を表しただけの言葉だ。その実態は難民だ。元いた場所を津波という災害で暴力的に奪われ、生活の基盤をことごとく失ったのだから。
僕は震災直後の岩手で、何百人もの人たちが生活している避難所を見て憤ったことを覚えている。いまもっとも手厚いケアがなされなくちゃいけない人たちが、どうしていつまでもこんな目にあっているのか。日本は日本人はいまできる最大の努力を持ってこの人たちを暖かく守ってあげなくちゃいけないはずだ、と。しかし5年経ついま、現状はどうか。
そして、その震災に伴って起きた原発事故は、はるかに複雑な状況の難民を生み出した。
そこには自分の家がある。一緒に住むことのできる家族もいる。仕事もまだできるはずだ。しかし、目に見えぬ放射能という脅威によって、いままでの概念では説明できない違う形の暴力によって、人々は土地と住処を奪われた。政治的な線引きで避難区域が決められ、住民は彼らとは遠いところにある何者かの恣意に沿って身の振り方さえも規定されてしまった。住民たちの生活や人生そのものに直接影響する「ライン」が、具象的にも抽象的にも住民たちの間に引かれてしまった。
放射能から逃れて他地域に移住した人たち(文字通りの難民だ)も大勢いる。逃れるというその行為が、逃げずにそこにい続ける人たちから非難されたり、あるいは逃れた先の自治体から温かく迎えてもらえないという事実もある。「私たちは棄民なんだ」と、子供を連れて避難した母親は言う。国からも自治体からも住民からも棄てられたという意味だ。
いま、熊本でも震災被害者が避難所で生活を強いられている。阪神でもそうだった、新潟でもそうだった。
在日コリアンの中にも第二次世界大戦や朝鮮戦争によって難民となり日本に住むことになった人たちがいる。
日本は難民に溢れているのだ。
本人たちの意思や責任の及ばぬことによって、つまり戦争や災害や人種や生まれた場所や政治や宗教や生きてきた文化によって、理不尽に作られてしまった「難民」。
日本は難民に溢れている。あなたの隣には難民がいる。
家を奪われ、生活を奪われ、土地を奪われ、ようやく辿り着いた場所に、その人たちの居場所はあるのか。避難所や仮設住宅をあてがい、我々は責任を果たしたと満足してはいないか。
「私たちは彼らをすでに十分に苦しめてきた。こんな馬鹿げたことはいますぐやめるべきだ」
その言葉を私たちのいったい誰が叫ぶのか。
蟻塚さんは現在、沖縄戦を生き延びた人たちの心の中に今でも生々しく続く心の苦しみの治療と、東日本大震災で被害に遭われた方々の精神的ケアを、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の観点に立って行われている。その方々の呈する症状が、ヨーロッパ大戦におけるPTSD、特にユダヤ人たちの受けた悲惨な経験の引き起こしたPTSDの症状に通づるものがあるのだと指摘している。
日本の中に溢れる難民となってしまった人たちの苦しみと辛さは、難民なんて対岸の話さとテレビの中のニュースを一瞥するだけの私たちには分からないものかもしれない。
でもこれだけは覚えておこう。
難民は、本人たちの意思や責任の及ばぬことによって生まれるものなのだということを。
つまり、これは明日のわたしなのだ。
明日のわたしの家族の姿なのだ。