個人的に慌ただしい一年だった。
3年前に一緒に岩手の大槌に行った義父が昨年の8月に亡くなった。85歳だった。
「死ぬ前にちゃんとこの目で見ておかなくちゃあな」と言っていた義父は、東北の東海岸を北は大槌から南は福島・茨城まで、たくさんの街や村や畑や海や山を目に焼き付け、先の言葉を体現するかのように、次第に体調を壊しやがて静かに逝ってしまった。
高校の元体育教師であり、その青年壮年時代をラグビーの選手としてあるいは指導者として過ごしてきた義父は、当時組合運動や社会運動にも加わり、社会や政治に対して常に一家言を持つ人だった。60を過ぎ退職してからはかなり積極的に日本中世界中を旅し、百カ国ちかくを実際に目にしたあとに「日本はな、先進国なんかじゃないぞ。りっぱな後進国だ」と言っていた。このお粗末な政治と政治家たち、理不尽で冷ややかな社会体制、貧しい人困っている人が救われないシステム、従順でお人好しな国民、政治家におもねる人々、選挙に行かない大衆。義父はよくそんな話をしては憤慨していた。
あの東北の旅でも、東北自動車道を北上している最中にそういう話は時々持ち上がっていた。しかし大槌に着いてその復興途中の風景とそこかしこの津波災害の残滓を眺めてからは、その様子が違った。義父はことあるごとに大きなため息を吐き、小さく「ちくしょう」と顔をしかめていた。
その表情は特に福島の海岸線を走っている時に顕著だった。捨てられた街。激しく生い茂る雑草や木々の中に建つ廃墟の街。枝道のすべてに立ち入り禁止のバリケードが張られ、不必要に止まるなと警告している。
助手席に座っていた義父は、窓の外に過ぎ去っていく街や村を見ながら、時に顔をしかめ「悔しいなぁ」と言っていた。
何かができたわけではない。何かをしたからといって、あの災害が防げたわけでもない。何がどう悔しいのかと問われても、きちんと返せる答えはきっとないだろう。
何をしても戻らない。たとえあの時に戻って激しく鐘を鳴らしたとしても、誰も信じないだろうし、何も変えられないだろう。巨大な物質の持つ慣性をちっぽけな手では止められないように、あの時の「時間」は誰にも何にも止めることはできなかった。
その、人の意思や思いなんかでは太刀打ちできないものに対して、つまり、大きな営みに対してまったく無力な人間に対して、義父は「悔しい」と感じたのかもしれない。
一週間にわたる旅を終え、義父はあちらへ行く前の務めを一つ果たしたと言っていた。
あれから9年、ぼくたちは今どの辺にいるのだろう。あの大災害を経て、ぼくたちはいまも助け合い励まし合いゆずりあっているだろうか。幸いにも幸運な側にいた人たちは(もちろんぼくも含め)、そうでなかった人たちのことを今も慮っているだろうか。
災害とは無縁であっても、弱い立場の人を気にかけているだろうか。そしてそれを行動に現しているだろうか。無理に微笑むことはせずとも、誰かに舌打ちをしたり妬みの眼差しを向けたりしていないだろうか。
良いことも悪いことも、様々なことが起こる。人は時に本当に無力だ。その無力さに「悔しい」とつぶやきながら、それでも人は生きていく。学び、努め、歩いて行く。
学び、努め、歩いて行きたい。