大きな出来事を考えるとき、いったいどこから考えを始めたらいいのか分からなくなる。入り口というかとっかかりというか、あまりに出来事が大きすぎて、しかもたくさんの人が様々なことを言っていて、まず始めの手がかりを探すだけで時間がさらさらと過ぎていくように感じてしまう。
今朝、当直明けの朝食を水辺にあるカフェで食べながら、そんなことを感じていた。つまり、3年目の今日のことだ。
「3.11」の重みは、年々大きくなっていくような気がする。初めの年は、つまり震災の直後は「なんとかしなくては」「とにかく行こう」というふうに過ぎていった。ぼくはその気持ちに従い、そのまま行動に移した。
2年目、ぼくは家族と一緒に大槌を訪ねた。街も人も前を向いて進んでいるように感じた。そしてぼくは、そのあとすっかりと仕事と日常の忙しさに埋もれていった。海の向こうの日本ではいろんなことが起こっていて、いまも起こりつづけている。そう、ほんとにいろんなことが。
残念ながら、被災した人や街のことは、単にそのいろんなことの一つとなってしまったかのように思える。
何がどうなってしまっているのか。ぼくはその何がどうなってしまったのかということを考えようとするが、その手がかりが探せずに半ば途方に暮れる。
カフェの窓の向こうに見える水面を眺めながら考える。
突き詰めると「何ができるか」なのかなと、ふっと思う。何がどうなのかとか、この現実の語ることは何なのかといった、頭で考えることではなくて。
時間、労力だけじゃない。「思いを寄せる」ことも含めて、何ができるか ------ なんだと思う。労力を傾けたり、時間を費やすことは、じつは案外難しいことではない。しんどいことは、思いを寄せ、想像し、胸を痛め、憤り、そして自分の心の中にうずまくマグマを見つけることだ。あるいは、マグマを自ら湧き起こさせることだ。そしてそのことで動き出す自分と、どう向かい合うかということだ。自らの想像力のもたらすマグマに対面することだ。
「忘れない」ということは、そういう苦しみを伴うこと。
自分の日常の中に、他者の苦しみや悲しみをどう迎え入れることができるか。オマエはそれができるのかどうなのか、その試練を言っているのだ。
そういうことなのだ。
手を抜くな。逃げるな。怖れるな、オレ。