8年目。
あの時中学生だった子が昨年大学を卒業して仕事を始めた。8年とはそれくらい長い時間。
ボランティアで岩手の大槌で働いた後も、日本に帰る度に大槌の復興の状況とそこに住む人たちに会いに行っていた。3,4回は通ったと思う。特に二年半前の訪日の際には、80歳を越える義理の両親と三人で千葉の銚子から車を走らせ大槌を訪れた。そのあとずっと海岸沿いを南下し、地震と津波と原発の被害を受けた町々を通って行った。両親の「死ぬ前にきちんと見ておかなければ」という気持ちがさせたことだ。
でも今回の訪日では、東北へは行かなかった。語弊があるかも知れないが、もう煩わせてはいけないんじゃないかと思ったからだ。復興(という言葉を無邪気に使うつもりはないが)の主役の人々の中に、「進捗を見届けたい」とか「あの人たちはどうしているだろう」とか、そういった僕の側の興味や思い込みで入っていくことに躊躇いを感じたからだ。実は二年前の旅のときにすでにそう感じていた。この違和感は何なのか明確に伝えることは難しいけど、強いて例えれば、観客は役者の作る舞台に「観客として」参加することはできても、舞台そのものには上がれないーーーということだろうか。
応援はする。拍手もする。心を寄せて考えたりもする。でもね、腹をくくって参加しないのであれば、観客として応援に徹するのが礼儀なのかもしれないな。とそう思っている。
8年間、あの日から始まった長い時間を毎日毎日生きてきた人たちに、そう簡単に「寄り添う」なんてできない。おこがましいよ。
大槌のたくさんの人たちの顔が浮かぶ。誰もがあの日のことを思い出しているんだろう。苦しいことや辛いことや寒かったことや会いたい人のことなどを思い出しているんだろう。
どうかお元気で、また明日からお仕事や勉強に精を出して下さい。僕は僕で何かの形で応援しています。
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