2011年3月11日の東日本大震災で命を落とされた方々のご冥福を改めて祈るとともに、ご家族ご友人を亡くされた方々に深い哀悼の意を送ります。
13年前、大槌町の避難所で、僕はとても怒っていた。表情にも態度にも出さなかったが、内心ではずっと憤りを抱えていた。変わらなかったからだ。
被災された人達の避難所での生活。春の訪れは近かったとはいえ、体育館の床は凍えるほど冷たく、外からの細かい粉塵が空気中に舞い、食事もほとんど冷たいものばかり。数週間後にトイレがようやく復旧し水も出るようになったけど、風呂やシャワーは限られた場所で限られた時間のみ。何より、とにかくプライバシーと呼べるものがほとんど確保できない生活。そんな状況が何ヶ月も続いていた。
それに比べ、ボランティアの僕らは恵まれていた。帰る場所があるからだ。少々難儀なことがあっても、やがてはそこを去り、温かく快適な場所に帰れる。とは言え、大槌でボランティア活動をしていた間、この「何も変わらない」状況に、常に怒りを覚えていた。
いま、日本で一番安心と安全が必要な人たちが、どうしていつまでも辛い避難所生活を送らなければならないのか。一瞬にしてたくさんのものを失った人たちをいつまでもこんな場所に閉じ込めておくのか。心と体が傷つき、必死の思いで逃げてきた人たちをいつまでこの冷たい床で生活させるのか。
政府、自治体、すべての国民が今こそあらゆるものを脇に置いて最大限の援助を速やかに行うべきじゃないのか。安心して眠れる場所を一刻も早く提供するのがつとめじゃないのか。遅々として進まない状況にとにかく僕は怒っていた。
13年が経ったけど、あの時のあの怒りは未だに思い出すことができる。
そして今年元旦。能登での大きな地震のニュースはここオーストラリアにも届いた。正月の華やかな時間が一瞬にして瓦解した。次々送られてくるニュースは、13年前と同じような内容だった。避難所での生活、水が出ない、トイレが使えない、食事は・・・。変わっていない。一刻も早く安心と安全が必要な人たちに、未だに冷たい床での生活が強いられている。憤る。
でも、なぜか真っ直ぐな感情が湧き起こらなかった。落ち着かないモヤモヤとした気持ちが、その怒りの表出を歪めているように感じていた。
13年前、あの地震と津波の映像を目の当たりにした僕は、まったくためらいなく「行かねば」と思った。しかしいま、僕はまっすぐに能登に行くことを考えもしなかった。そこの人たちの辛さ悲しさは想像に難くない。でも、ここ数年の出来事の多さにおそらく気持ちが麻痺しているのだと思う。ウクライナでの侵略戦争、ガザでの虐殺、アフリカで起きている内戦。目を疑うような出来事が世界中で次々起きている。能登の様子を知るのと同じ精度で、戦争のリアルが世界中から伝えられてくる。そんなニュースをひとつひとつ知るにつれ、僕は不安になる。状況に対する無力感、人間というものに対する猜疑心、そういったものが、底辺を流れる不安と行き場のない絶望に変わっていくのを感じる。怒りというよりも、もやは諦めに近い。分かっている、諦めてはいけないことは。
混沌としたこの状況は、インターネットやSNSの飛躍的進歩によってもたらされたのかもしれない。情報の伝達の早さは言うまでもなく、「誰でも」「いつでも」「なんでも」発言できることが、我々の頭脳をかき乱し、物事を不必要に混乱させ、正解と不正解をもてあそび、真っ直ぐな感情を揶揄したり貶めたり、議論の枝葉末節に膨大な数の言葉を羅列させる。さて自分はいったい何を考え何をしようとしていたのか?
ストレートな気持ちで行動することのなんと難しくなったことか。あの時に覚えた「怒り」は、たくさんの靴で踏みつけられ、土間に投げ捨てられてしまったかのようだ。
どういうことなんだろう。僕自身がどうしようもなく擦れてしまったのか、あるいはこの時代が、我々の感情に多種多様な人工着色料を投げ込んでいるのか。湧き上がる感情と、その帰結であるはずの行動がこうも繋がりにくい。
目を閉じて自分の声を聞くことの大事さを思い出さねば。
決して諦めないで下さい。貴兄のような志を持ち続ける人間がいるのは、この世もまんざら捨てたものではありません。声を出し続け、叫び続けましょう。
返信削除ありがとうございます。お互い声を挙げていきましょう。
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