ふとした時に災害について考える。いま何かが起きたらどうしたらいいか、起きる予兆をどう判断するか、何を持ち、どこへどうやって逃げるか。優先順位は? 家族との連絡をどうするか。旅行中にこんなことが起きたら? あんなことが起きたら? 食器を洗いながらそんなことを考えたりする。
11年前の東北大震災からだ。
津波直後の岩手沿岸の、あのたくさんの瓦礫を目の当たりにして、僕は言葉が出なかった。一人ひとりの生活がすさまじい暴力になぎ倒された跡にただただ驚いていた。こんなことが本当に起きるんだ・・・。ここで起きたんだ・・・。
僕の住むオーストラリアでも災害は起きる。夏のブッシュファイアー(山火事)は、時にとてつもない規模で森や町を焼く。数年前に起きたブッシュファイアーで、近くの町が一つ消えた。人の命も奪われる。今年もいくつも火事は起きた。
火事だけじゃない。いま東の州では何週間も大雨が続き、たくさんの建物が水に浸かり、多くの人が家を失った。それはまだ進行中だ。
海外を見回せば、それこそ常にどこかで災害が起きている。地震も噴火も洪水も火事も。突然起きて、いままでの生活が失われる。
そして、戦争という人災。とてつもない数の人の命が奪われて、見境なく、あるいは恣意的に街がいくつも壊される。昨日までの生活が、今日消えてしまう。文字通り、突然消えてしまう。
そんなことが本当に起こるのだ。起こっているのだ。
11年前に津波の被害を目撃した自分は、もう普通の生活が当たり前だとは思えなくなった。
いつか必ず何かは起きる。それがいつか、それは何か、どんな規模か、どんな状況か、そんなことはまったく分からないが、でもこの「普通」は永遠ではないと思った方が良い。そう自分に言い聞かせてきた。
もちろん神経症的に怯えて暮らす必要はないが、その想像力を持つことによって、自分にとっての大事なこと、つまり価値について考えるようになる。何よりも、いま現に「普通」が暴力的に奪われている人たちに対して思いを馳せられるようになる。「普通」であることは当たり前のことではなく(もちろん、誰にとっても当たり前であってほしいが)、ありがたいことなのだと知ることができる。ありがたいとは有り難いということ、当然ではないということだ。
その有り難いという気持ちが共有できる世界であってほしい。誰も暴力的に奪われない世界。いっさいの天災が起きない世界・・・、もちろんそんな都合のいい世界なんてあるわけがない。でも、少なくとも暴力的な人災を防ぐことはできるはずだ。普通の有り難さを実感できる人たちが増えていけば。
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