2011年5月23日月曜日

収支報告

今回の東北大震災医療支援に関して、とてもたくさんの方から応援をいただきました。応援の内容は、支援金、支援物資のみならず、車両貸与や無形の援助までさまざまでした。

以下におおまかな報告をさせていただきます。概算に留まります。手元にあるレシートを参考にして作成しましたが、レシートに残らないような支出は分かる分だけ算出してあります。携帯電話の使用料金などの、これから発生する金額は加えられていません。というわけで、細かな収支は現実問題として不可能でした。ご了承下さい。

ちなみに、支援金に関するぼくの考えは、以前書いたエントリーに説明してあります。どうぞご参考下さい。


では、まずは資金援助から順々に報告させていただきます。



1.資金援助総額と概算総支出
基本的には、友人や知人からのカンパのみを頂くということにしたのですが、上記(「資金援助について」)のぼくの考えに賛同していただける方からも、資金援助のお申し出をいただきました。それらも有り難く頂き、大切に使わせていただきました。

  • 援助金額(現金及び銀行振り込み)
     豪ドル:3400ドル
     日本円:544,745円

  • 支出
豪ドル:約2500ドル
日本円:約235,000円

支出の主な内容は以下の通りです。
オーストラリア日本往復チケット・海外旅行者保険・6週間分の食料・サプリメントを含む医薬品・交通費・携帯電話契約等の通信費・宿泊費・燃料代

  • 上記支出以外に、お預かりした支援金より下記5ヶ所に寄付を行いました。計35万円です。


    • ただし、この寄付は、ぼくの妻がオーストラリアで企画運営した複数のチャリティーコンサート等からのドネーションも含まれています。妻の預かったドネーションの総額はA$1,782.95でした。このドネーションはぼくへの支援金ではないので、全額下記団体へ振り込みました。
    • 上記ドネーションにぼくが個人的にいただいた支援金(約750豪ドルと15万円)を足して、下記35万円の寄付としました。少しややこしいことになりましたが、夫婦でやっていたことなのでご了承を。ちなみに、妻はチャリティーコンサートに関わった方々に直接収支報告を行っております。
    • 妻の企画運営したチャリティーコンサートに関しては、このブログでもいずれ報告させていただきます。

      • よって、現時点での概算総支出は
           豪ドル:約3300ドル
           日本円:約385,000円

      上でも説明いたしましたが、この総支出にはレシートに残っている分のみです。それと、これから請求される分は含まれていません。


      2.物資援助
      ぼく個人宛てに、長靴・電池・食料・キャンピングコンロ・燃料・防寒下着・ヘッドライトを頂きました。
      さらに現地支援物資として、大人用おむつ(段ボール8箱)・ペットボトル飲料水(6箱)・食料(米・おでん・リンゴ6箱・バナナ6箱・生めん)・ペット用品・サニタリー用品・電池・懐中電灯・おもちゃ・折り紙・マスク・手袋・エプロン・掃除用品(クイックルワイパー等)を受け取り、4月3日に無事大槌町の物資集積場に届けました。一部については、城山体育館の被災者の方々へ直接お渡しいたしました。


      3.車両貸与
      妻の弟(水戸市在住)に、8人乗りワゴン「マツダMPV」を貸してもらいました。約一ヶ月半に渡って、このMPVは大活躍でした。ベースキャンプとした妻の実家の銚子から大槌町への大量の物資搬送をはじめ、車両のほとんどを流されてしまった大槌町役場の保健師さんとの地域往診まで、とてもたくさんの場面で使わせてもらいました。
      被災地は、埃が多い上に慢性的な水不足なので、MPVは洗車されることもなく悲しいほどひどい汚れ具合でした。大切に使われていたMPVが日増しに汚れていくのを見てぼくはとても辛かったのですが、義弟は一言もそのことには触れませんでした。もちろん銚子に戻ってキレイに内も外も洗いました。
      一度バッテリーを上がらせてしまったので、それも含めて整備費として若干お渡しいたしました。


      4.その他
      今回ぼくの活動は、「ひとりNPO」として出発したものでしたが、沖縄県医師会からの派遣医師という身分のもとでもありました。公的な派遣依頼は4月15日から22日でしたが、実質的には大槌町城山体育館救護所で過ごした5週間の活動は沖縄県医師会の援助があったからこそです。上記MPVの大槌町内外でのガソリン代と支援期間中花巻での一泊の宿泊費も、沖縄県医師会から援助頂きました。

      カンタス航空からはパース・成田間の往復チケットを400ドル、ディスカウントしてもらいました。タダでチケットくれてもいいじゃないかと当初は憤っていましたが、いま考えると、突然の申し出に400ドルディスカウントとはありがたいですね。

      銚子の妻の両親には、ハード面ソフト面とも大きな応援を頂きました。外国に住むものとして、関東圏にベースキャンプが置けたのはとてもありがたいことでした。まさか出身地の沖縄には置けませんし。

      岩手県タイマグラの民宿フィールドノートには風呂と洗濯と休養のため、3度宿泊しました。女将と旦那さんにはボランティア料金での宿泊料を適用してもらいました。


      以上、現時点での収支報告です。


      現時点で、収支のバランスはプラスにありますが、実際のところおそらくほぼゼロになるだろうと思います。もし最終的にプラスとなったとしても、それは今後ぼくが再び被災地を訪れるときの交通費に充てさせていただきたいと思います。ご了承下さい。


      こうやって思い返してみると、つくづく大勢の方々に応援してもらったんだなあと実感しています。ぼく自身、怪我なく事故なく元気よく、全期間現地で医療支援をすることができて、ほんとによかったと思います。


      有形無形の応援を頂いた、みなさんのおかげです。
      みなさんのその気持ちは、確実に被災地の方たちに伝わったと思います。


      ほんとうにありがとうございました。

      手書きの手紙

      5月8日に大槌を発ち、早いものでもう二週間が経った。日本でいろいろと片付けものがあり、オーストラリアの我が家に戻ったのは、ちょうど一週間前だ。大槌の城山診療所にいた時は、一週間というタイムスパンはだいぶ長く感じたのに、この二週間はあっという間だ。

      家に戻って、ずいぶん手紙を書いた。大槌で出会った人々に。

      元来とても筆無精で、そのせいで過去にたくさんの失礼をした。パソコンが手元にあるようになってからは、ちょこちょことメールを書いたりはするのだが、手紙を書くとなると一段も二段も敷井が上がる。それでも時々はパソコンで文章を書き、それを印刷するというやり方で手紙を送ることもあった。同じ文面を印刷して宛て名だけ変えるという「手抜き」も、パソコンでなら簡単だ。メールでいえば Cc みたいなもんだ。手元に送った内容が残るということは悪くないし。

      でも、今回はすべて手書きで手紙を書いた。なんとなく、時間と労力を傾けるのがいいような気がしたからだ。

      元々メールでつながっていた人たちとメールでやり取りするのはなんら問題はないが、大槌で出会った被災者の方々とは、なんというか、アナログな出会いというか、生身の出会いというか、つまり、具体的な労働力を介した出会いのような気がするのだ。キーボードで文字を打つ作業も労働と言えなくもないだろうが、いやいや、テーブルの上を片付け紙を用意しペンを探して文字を書く、その文章も宛て先の一人ひとりの顔を思い浮かべてああでもないこうでもないと書き進め、さらに封筒に宛て名を書いて郵便局に持っていって投函するという作業ははるかにはるかに心と体を使った労働だ。

      正直言って、おそらくどの手紙も内容にそう違いがあるわけではない。向こうでぼくが何を思い、その方に何を伝えたいかなんて、十通書いて十通りあるわけがない。でも、たとえ同じような内容でも、一字一字その人に当てるという作業の中で、大槌で過ごした日々が少しずつ昇華されていくような気がした。

      20通ほど書いた。丸三日はかかった。

      それが一週間ほどかけて大槌に運ばれ、みんなの元に届けられる。返事が来るとしても、それからまたゆうに一週間はかかる。まるで遅々として進まない復興計画のようだけど、起こした行動は、小さくともそれなりに実になるのだ。そろそろ届いたかなあと想像するのも悪くない。

      2011年5月7日土曜日

      大槌を去る

      明日の朝、大槌を去る。
      結局、ひと月あまり大槌町にいたことになる。正確には5週間と1日。

      「ひとりNPO」としてオーストラリアからやって来て、その当時は実際どこで自分が医療支援ができるのかもじゅうぶん決まってなかった。いま考えると、なんだか無謀だったなあと思うのだが、このひと月余りを振り返ると「来るべき時に来るべきところに来た」という感じがする。「縁」という言葉をとても強く感じる。その縁にぼくは感謝している。ここで出会った多くの方々に、ぼくはとても感謝している。

      そして、快くここに送り出してくれた妻にありがとうを言いたい。ぼくの留守中、妻や子を支えてくれた友人たちにもとても感謝している。

      そして今日。大槌町で送る最後の一日。

      地震と津波と大火災に見舞われた多くの人たちのことを思うと、とても心が痛む。

      この悲劇は誰の身にも起こりえることだった。東京でも起こりえることだし、沖縄でも起こりえることだ。本当に、たまたま東北沖で地震が起こり、大勢の人が亡くなり、大勢の人が傷つき、大勢の人が様々なものを失った。帰ってこない人も大勢いる。

      普通の人生を歩んできて、普通に生きてきた人たちが、とんでもなく異常な日々を送らなくてはならなくなった。それが自分でなかったことは、単に偶然でしかない。

      ここに来て深く思うのは、あたりまえの生活のなんとはかなくもろいものかということだ。

      形のあるもののはかなさもまた。

      大津波と大火災で破壊された大槌の町を見ると、心が痛い。何度見ても、そのすさまじさは衝撃だ。駅舎が消え、水に浸かった線路。土台だけを残して消えてしまった家屋。ガレキと呼ばれる、無数の記憶の塊。黒く焼け焦げた校舎。

      だが正直なところ、「日常の当たり前の風景」として見慣れてしまうこともある。見慣れているということに気づくたび、そのこと自体が別の衝撃となる。

      ここを去ったあとに自分に残るのはいったいなんだろう。自分はいったいここで何を見て感じてきたのだろう。

      生きるということの不条理と残酷さか。
      残酷な人生に立ち向かう、人間の力か。
      人の営みをいとも簡単に流し去る自然の驚異か。

      そのどれでもあり、どれでもないような気がする。

      おそらくひとつ言えることは、生き残った人たちは一人一人が物語を持っていて、その物語に触れるたび、ぼくは言葉を失ったということだ。

      言葉を失ったときに訪れる、あの静けさ。生きるということの、その悲しさ。人と人が遭うということの、この重さ。

      もし人生に意味があるとすれば、きっとその静けさの中にあるんだろう。

      ずいぶん感傷的になっている。

      「去る者」はこうして事実を感傷的にとらえ、「居る者」は事実を生き延びなくてはならない。ぼくが最後の日を感傷的に過ごしているこのときも、ここにいる人たちは今日一日を明日を明後日を生き延びていく。

      オレはそのことを忘れてはならぬ。