2022年3月11日金曜日

11年目:「普通」の生活

 ふとした時に災害について考える。いま何かが起きたらどうしたらいいか、起きる予兆をどう判断するか、何を持ち、どこへどうやって逃げるか。優先順位は? 家族との連絡をどうするか。旅行中にこんなことが起きたら? あんなことが起きたら? 食器を洗いながらそんなことを考えたりする。

11年前の東北大震災からだ。

津波直後の岩手沿岸の、あのたくさんの瓦礫を目の当たりにして、僕は言葉が出なかった。一人ひとりの生活がすさまじい暴力になぎ倒された跡にただただ驚いていた。こんなことが本当に起きるんだ・・・。ここで起きたんだ・・・。

僕の住むオーストラリアでも災害は起きる。夏のブッシュファイアー(山火事)は、時にとてつもない規模で森や町を焼く。数年前に起きたブッシュファイアーで、近くの町が一つ消えた。人の命も奪われる。今年もいくつも火事は起きた。

火事だけじゃない。いま東の州では何週間も大雨が続き、たくさんの建物が水に浸かり、多くの人が家を失った。それはまだ進行中だ。

海外を見回せば、それこそ常にどこかで災害が起きている。地震も噴火も洪水も火事も。突然起きて、いままでの生活が失われる。

そして、戦争という人災。とてつもない数の人の命が奪われて、見境なく、あるいは恣意的に街がいくつも壊される。昨日までの生活が、今日消えてしまう。文字通り、突然消えてしまう。

そんなことが本当に起こるのだ。起こっているのだ。

11年前に津波の被害を目撃した自分は、もう普通の生活が当たり前だとは思えなくなった。

いつか必ず何かは起きる。それがいつか、それは何か、どんな規模か、どんな状況か、そんなことはまったく分からないが、でもこの「普通」は永遠ではないと思った方が良い。そう自分に言い聞かせてきた。

もちろん神経症的に怯えて暮らす必要はないが、その想像力を持つことによって、自分にとっての大事なこと、つまり価値について考えるようになる。何よりも、いま現に「普通」が暴力的に奪われている人たちに対して思いを馳せられるようになる。「普通」であることは当たり前のことではなく(もちろん、誰にとっても当たり前であってほしいが)、ありがたいことなのだと知ることができる。ありがたいとは有り難いということ、当然ではないということだ。

その有り難いという気持ちが共有できる世界であってほしい。誰も暴力的に奪われない世界。いっさいの天災が起きない世界・・・、もちろんそんな都合のいい世界なんてあるわけがない。でも、少なくとも暴力的な人災を防ぐことはできるはずだ。普通の有り難さを実感できる人たちが増えていけば。





2021年3月11日木曜日

十年目

十年という歳月を振り返ってみる。うん、長い。いろんなことがあった。いい日もあればまあまあ悪い日もあった。しんどいこともあったけど、そんなに長続きはしなかったな。

言ってみれば、そこそこ平凡な日々。

大槌をはじめ震災と津波を受けた街の人たちにとっては、もちろんそうではなかった。一人ひとりに違う道があって、大変な思いをしながら辿ってきたのだろうなあと思う。いや、辿ったのではなく、一人ひとりが道を作ってきたのだと思う。目の前に広がる荒野に足を踏み出して、一歩一歩踏み固め、道を作ってきたのだと思う。

震災後、岩手県大槌町にほんのちょっとの時間だけど、ぼくはいた。あの時出会った人たちはそれぞれの道を歩み進んでいることだろう。特に中学生だった女の子3人組。今ではもう二十四,五歳だ。その内のひとりエリカちゃん(今はもう、エリカさん、ですね)は、奨学金を得て単身東京に勉強に出て、そのまま仕事に就いた。やや引っ込み思案な彼女にとって、寂しさや辛さは人一倍だったと思う。それでもほんとによく乗り切った。いまの仕事も大変そうだけど、なんともう4年目だという。すごいよ。誰にでも真似できることではない。

あの時に被災した一人ひとりが新しい道を作り進んで行った。崖っぷちの道があったかもしれない。荒涼とした砂漠に細く伸びる道かもしれない。ぬかるみの道、ゴツゴツした岩場を縫う道、濡れた道、藪におおわれた道。開けた稜線の道、谷沢へと落ちる急な道、寂寞とした夜道。その道はみな、元は荒野だった。思い切った一歩を踏み出し、地面を踏み固め、前に進んだからこそ生まれた道だ。不安と悲しみに満ちた世界から足を踏み出したからこそ、その道は生まれた。


後ろを振り返るとそこに道ができていた。でも決して真っ直ぐじゃない。右に曲がり、左に折れ、時には行きつ戻りつ、留まっていたところには小さな広場もできている。十年の歳月の作った道は驚くほど複雑で長い。


振り向いたとき、辿ってきた道を思い返すこともあるだろう。でも間違いなく、一人ひとりがその道の先に立っているのだ。


10年経った今、かの人々は目的地を見いだし力強い一歩を踏んでいるだろう。

2020年3月12日木曜日

九年目

個人的に慌ただしい一年だった。

3年前に一緒に岩手の大槌に行った義父が昨年の8月に亡くなった。85歳だった。
「死ぬ前にちゃんとこの目で見ておかなくちゃあな」と言っていた義父は、東北の東海岸を北は大槌から南は福島・茨城まで、たくさんの街や村や畑や海や山を目に焼き付け、先の言葉を体現するかのように、次第に体調を壊しやがて静かに逝ってしまった。

高校の元体育教師であり、その青年壮年時代をラグビーの選手としてあるいは指導者として過ごしてきた義父は、当時組合運動や社会運動にも加わり、社会や政治に対して常に一家言を持つ人だった。60を過ぎ退職してからはかなり積極的に日本中世界中を旅し、百カ国ちかくを実際に目にしたあとに「日本はな、先進国なんかじゃないぞ。りっぱな後進国だ」と言っていた。このお粗末な政治と政治家たち、理不尽で冷ややかな社会体制、貧しい人困っている人が救われないシステム、従順でお人好しな国民、政治家におもねる人々、選挙に行かない大衆。義父はよくそんな話をしては憤慨していた。

あの東北の旅でも、東北自動車道を北上している最中にそういう話は時々持ち上がっていた。しかし大槌に着いてその復興途中の風景とそこかしこの津波災害の残滓を眺めてからは、その様子が違った。義父はことあるごとに大きなため息を吐き、小さく「ちくしょう」と顔をしかめていた。

その表情は特に福島の海岸線を走っている時に顕著だった。捨てられた街。激しく生い茂る雑草や木々の中に建つ廃墟の街。枝道のすべてに立ち入り禁止のバリケードが張られ、不必要に止まるなと警告している。

助手席に座っていた義父は、窓の外に過ぎ去っていく街や村を見ながら、時に顔をしかめ「悔しいなぁ」と言っていた。

何かができたわけではない。何かをしたからといって、あの災害が防げたわけでもない。何がどう悔しいのかと問われても、きちんと返せる答えはきっとないだろう。

何をしても戻らない。たとえあの時に戻って激しく鐘を鳴らしたとしても、誰も信じないだろうし、何も変えられないだろう。巨大な物質の持つ慣性をちっぽけな手では止められないように、あの時の「時間」は誰にも何にも止めることはできなかった。

その、人の意思や思いなんかでは太刀打ちできないものに対して、つまり、大きな営みに対してまったく無力な人間に対して、義父は「悔しい」と感じたのかもしれない。

一週間にわたる旅を終え、義父はあちらへ行く前の務めを一つ果たしたと言っていた。

あれから9年、ぼくたちは今どの辺にいるのだろう。あの大災害を経て、ぼくたちはいまも助け合い励まし合いゆずりあっているだろうか。幸いにも幸運な側にいた人たちは(もちろんぼくも含め)、そうでなかった人たちのことを今も慮っているだろうか。

災害とは無縁であっても、弱い立場の人を気にかけているだろうか。そしてそれを行動に現しているだろうか。無理に微笑むことはせずとも、誰かに舌打ちをしたり妬みの眼差しを向けたりしていないだろうか。

良いことも悪いことも、様々なことが起こる。人は時に本当に無力だ。その無力さに「悔しい」とつぶやきながら、それでも人は生きていく。学び、努め、歩いて行く。

学び、努め、歩いて行きたい。

2019年3月11日月曜日

八年目

8年目。
あの時中学生だった子が昨年大学を卒業して仕事を始めた。8年とはそれくらい長い時間。
ボランティアで岩手の大槌で働いた後も、日本に帰る度に大槌の復興の状況とそこに住む人たちに会いに行っていた。3,4回は通ったと思う。特に二年半前の訪日の際には、80歳を越える義理の両親と三人で千葉の銚子から車を走らせ大槌を訪れた。そのあとずっと海岸沿いを南下し、地震と津波と原発の被害を受けた町々を通って行った。両親の「死ぬ前にきちんと見ておかなければ」という気持ちがさせたことだ。
でも今回の訪日では、東北へは行かなかった。語弊があるかも知れないが、もう煩わせてはいけないんじゃないかと思ったからだ。復興(という言葉を無邪気に使うつもりはないが)の主役の人々の中に、「進捗を見届けたい」とか「あの人たちはどうしているだろう」とか、そういった僕の側の興味や思い込みで入っていくことに躊躇いを感じたからだ。実は二年前の旅のときにすでにそう感じていた。この違和感は何なのか明確に伝えることは難しいけど、強いて例えれば、観客は役者の作る舞台に「観客として」参加することはできても、舞台そのものには上がれないーーーということだろうか。
応援はする。拍手もする。心を寄せて考えたりもする。でもね、腹をくくって参加しないのであれば、観客として応援に徹するのが礼儀なのかもしれないな。とそう思っている。
8年間、あの日から始まった長い時間を毎日毎日生きてきた人たちに、そう簡単に「寄り添う」なんてできない。おこがましいよ。
大槌のたくさんの人たちの顔が浮かぶ。誰もがあの日のことを思い出しているんだろう。苦しいことや辛いことや寒かったことや会いたい人のことなどを思い出しているんだろう。
どうかお元気で、また明日からお仕事や勉強に精を出して下さい。僕は僕で何かの形で応援しています。

2018年3月11日日曜日

七年目

七年目。昨晩とても久し振りにその時の日記を読み返した。

災害のあと、ぼくは岩手の大槌町で医療ボランティアをしていた。支援物資を目一杯積んだ車を運転し、雪混じりの峠道を越えて大槌に到着した時の驚きを今でも覚えている。その日から城山公民館の臨時医務室で五週間を過ごした。一日一日があっという間だった。たくさんの人に出会った。いろんな話をした。いろんな話を聞いた。

何かの助けになればと思って行ったのだけど、気負いが過ぎたのか、一人で空回りしたり、かえってそこの人たちに無理を強いていたり、日記の中の自分は毎日毎日浮いたり沈んだりを繰り返す。「そこに居続ける人」と「そこをいずれ去る人」との間には大きな河が流れているにもかかわらず、しかしともすると去る人たちはそのことを忘れてしまう。自分が当事者であるかのように考え振る舞ってしまう。ダメだなぁと日記を読み返しながらため息が出る。

五週間が過ぎてその避難所を去るとき、たくさんの人たちが見送ってくれた。「去る人」には帰る場所があり、帰る日があるのだ。ぼくが去った後も、みんなはその避難所でまたいつもの生活が待っている。ぼくは後ろめたかった。来たときは車体が沈むほど荷物が満載だったワゴン車がいまはガランと空っぽだ。城山を去るときの、バックミラーに映る彼ら彼女らの手を振る姿は今でもはっきりと覚えている。

大槌から釜石を経て遠野に向かう道すがら、いくつもの鯉のぼりが川岸に吹かれていた。美しい青空だった。春が来たんだ、ここにも春が来たんだ、と風に流れる鯉のぼりを見ていた。と、ラジオから松任谷由実の「春よ、来い」が流れてきた。ボロボロボロボロ泣きながら、僕はその歌を聞いていた。

七年が過ぎた。あの時出会ったすべての人に七年という時が流れた。中学生だった子が今年大学を卒業した。社会人としてもう立派に働いている子もいる。新しい仕事を見つけた人、住み家を再建した人。でもいまだ避難住宅での生活を強いられている人たちもいる。

もちろんぼくにもその時間が等しく流れた。七年という時間はじゅうぶん長い。いろんなことがあった。大槌にはあの後も数回訪れた。町の復興は緩やかではあるが確実に進んでいたけれど、それよりもはるかに人々の復興が先を行っているように感じた。

もはや何ができるわけでもなく、ただ単に旅人として、大槌の姿を見に行っているだけだ。いやただ一つできるとすれば、あの避難所の辛さ悲しさ、人々の気丈さとたくましさを伝えること。そこにいた方々はみなその時を経て来たのだということを、ぼくは知っている。それは誰もが知っているはずだ。

今日の昼過ぎ、北の空に向かって黙祷を捧げた。一万キロ向こうに住む人たちと、無念に命を失った人たちに祈った。今年も青く美しい春があの地に来ますように、と。


2016年4月28日木曜日

難民国家日本

毎年3月11日には、このブログに何かを書いてきた。今年もそうしようと思っていたのだけど、どうにもありきたりの言葉しか出てこず、ぼくは書くのをやめた。
でも、3.11の頃からある言葉が頭に浮かんでいて、もやもやとした気持ちでいた。
今日、なんとかそのことをまとめてみた。
もしよければ、少し長い文章だけれど読んでいただきたい。

----------------

「難民」というキーワードを用いて、戦後の沖縄と原発事故避難者の方々の現状を語っておられる方がいる。精神科医の蟻塚亮二さんだ。
秀逸な考え方だと思った。
難民とは一般的に、災害や戦争などによって住処を奪われ避難してきた人たち、あるいは宗教や民族、政治的差別に基づく迫害から逃れてきた人たちを指す。今まで生きてきた場所と生活の基盤を暴力的に根こそぎ奪われる、それが難民だ。
例えば最近では、国内の政治的対立や大国による無差別空爆の起きているシリアから、何百万人もの難民がヨーロッパ諸国に押し寄せているという。
少しさかのぼれば、宗教と民族と言語の壁によって内側から完全に破壊された旧ユーゴスラビア、それから何十年も終わることのない内戦の続くスリランカ、他にもたくさんの国や地域から多くの難民が世界中に溢れてきた。
難民とは世界のほとんどの国にとって、いつのときも進行形としての問題である。人道的観点から隣国の難民を受け入れるべきだという意見と、いや自国の経済や安定を守るために門戸を閉じるべきだという意見の狭間に、近隣の国は立たされることになる。高度に政治的かつ人道的な問題、それが難民問題だ。
僕の住んでいるオーストラリアでも、この問題に対する議論は終わることがない。奇しくも今日は国会でナウル島難民収容キャンプにおける非人道的な運用に対して大々的な委員会が開かれた。ある国会議員が「私たちは彼らをすでに十分に苦しめてきた。こんな馬鹿げたことはいますぐやめるべきだ!」と政府の対応を質した。その言葉は多くのオーストラリア人に支持されている。
ひるがえって、日本や日本人にとって「難民」という言葉は遠い対岸の話にすぎない、と僕には思える。
おそらくあなたの横にも近所にも、戦禍や迫害から逃れてきた異国の人はいないだろう。いないように見えるだろう。
でもそれは違う。
日本は難民に溢れている。しかもとてつもない数だ。
戦後の沖縄。過酷な地上戦を生き延びた住民たちのほとんどが、その戦火で家族や家を失い、しかも敗戦の後、米軍による強制接収で多くの人が土地さえも失った。のみならず64年前の今日1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約で日本はアメリカに「日本国」の平和と安定を引き換えに琉球奄美諸島を手渡した。こうして南西諸島は数十万人の難民を抱える実質的な巨大難民キャンプとなった。歴史的に沖縄奄美は「元日本人」を抱えた難民収容所として戦後を生きてきることになったというわけだ。
そして、アメリカ政府の圧政の元で20年を生き延びた琉球難民キャンプは祖国復帰という名の下で、今度は日本政府による懐柔的圧政に甘んじることになる。今の沖縄を見れば(特に辺野古や宜野湾基地問題)、いまだに沖縄は難民キャンプとしてしか見なされていないのではないかと思う。幾重にも包装紙に包まれ、色とりどりの飾りのつけられた、難民たちの島。
そして2011年、東日本大震災。いったいどれだけの人が家と家族と土地を失ったか。地震、津波という天災の後、数ヶ月ものあいだ公民館や体育館で避難所生活を強いられ、その後は仮設住宅。その生活ももう5年になる。被災者という言葉は事実を表しただけの言葉だ。その実態は難民だ。元いた場所を津波という災害で暴力的に奪われ、生活の基盤をことごとく失ったのだから。
僕は震災直後の岩手で、何百人もの人たちが生活している避難所を見て憤ったことを覚えている。いまもっとも手厚いケアがなされなくちゃいけない人たちが、どうしていつまでもこんな目にあっているのか。日本は日本人はいまできる最大の努力を持ってこの人たちを暖かく守ってあげなくちゃいけないはずだ、と。しかし5年経ついま、現状はどうか。
そして、その震災に伴って起きた原発事故は、はるかに複雑な状況の難民を生み出した。
そこには自分の家がある。一緒に住むことのできる家族もいる。仕事もまだできるはずだ。しかし、目に見えぬ放射能という脅威によって、いままでの概念では説明できない違う形の暴力によって、人々は土地と住処を奪われた。政治的な線引きで避難区域が決められ、住民は彼らとは遠いところにある何者かの恣意に沿って身の振り方さえも規定されてしまった。住民たちの生活や人生そのものに直接影響する「ライン」が、具象的にも抽象的にも住民たちの間に引かれてしまった。
放射能から逃れて他地域に移住した人たち(文字通りの難民だ)も大勢いる。逃れるというその行為が、逃げずにそこにい続ける人たちから非難されたり、あるいは逃れた先の自治体から温かく迎えてもらえないという事実もある。「私たちは棄民なんだ」と、子供を連れて避難した母親は言う。国からも自治体からも住民からも棄てられたという意味だ。
いま、熊本でも震災被害者が避難所で生活を強いられている。阪神でもそうだった、新潟でもそうだった。
在日コリアンの中にも第二次世界大戦や朝鮮戦争によって難民となり日本に住むことになった人たちがいる。
日本は難民に溢れているのだ。
本人たちの意思や責任の及ばぬことによって、つまり戦争や災害や人種や生まれた場所や政治や宗教や生きてきた文化によって、理不尽に作られてしまった「難民」。
日本は難民に溢れている。あなたの隣には難民がいる。
家を奪われ、生活を奪われ、土地を奪われ、ようやく辿り着いた場所に、その人たちの居場所はあるのか。避難所や仮設住宅をあてがい、我々は責任を果たしたと満足してはいないか。
「私たちは彼らをすでに十分に苦しめてきた。こんな馬鹿げたことはいますぐやめるべきだ」
その言葉を私たちのいったい誰が叫ぶのか。
蟻塚さんは現在、沖縄戦を生き延びた人たちの心の中に今でも生々しく続く心の苦しみの治療と、東日本大震災で被害に遭われた方々の精神的ケアを、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の観点に立って行われている。その方々の呈する症状が、ヨーロッパ大戦におけるPTSD、特にユダヤ人たちの受けた悲惨な経験の引き起こしたPTSDの症状に通づるものがあるのだと指摘している。
日本の中に溢れる難民となってしまった人たちの苦しみと辛さは、難民なんて対岸の話さとテレビの中のニュースを一瞥するだけの私たちには分からないものかもしれない。
でもこれだけは覚えておこう。
難民は、本人たちの意思や責任の及ばぬことによって生まれるものなのだということを。
つまり、これは明日のわたしなのだ。
明日のわたしの家族の姿なのだ。


2015年3月11日水曜日

4年目に思うこと

4年前、2011年の4月、大槌の城山体育館の仮設診療所で働いていたとき。体育館の冷たい床の上で大勢の方々が何週間も生活せざるを得ないのを見ていた。住み家を失い、大切な人を失い、町を失い、持っていたものをすべて失った人たちを見て、ぼくは思った。

―――この方々こそ、いますぐもっとも安全で快適な場所で休んでもらうべきだ。

ところが現実は、衣食住の何も満たされず、プライバシーもなく、泣いたり悲しんだり、そんなことのできる場所のどこにもない生活。水や電気も長らく使えなかった。外の埃が避難所に舞い込んでくる。咳き込む人が日増しに多くなる。冷たい食事が続く。

いったいその状況はどれだけ続いたのか。5月上旬にぼくがそこを離れたとき、仮設住宅に避難所から移っていった人はまだ誰もいなかった。2ヶ月が経ってもそんな状態だった。

あの時、日本でもっとも辛いことに遭った人たちが、二ヶ月経っても体育館の冷たい床の上で生活していた。日本でもっとも休息と安らかな時間が必要とされていた人たちが、あんなにも長く辛い時間を過ごさざるを得なかった。

あの時ぼくはこう思った。

日本は、日本人は、いま何をさておいてもこの方々に最大の安息と休養を与えるように努力するべきだと。それが何よりも優先されるべきだと。何よりもまずその方々の身体と精神の回復が先だ。

その責任の主体は日本政府であるべきだ。

あれから4年が経った。

2年を目処の仮設住宅で暮らす方々が、4年経つ今も8万人以上おられる。住み家を失い、他所で避難生活を送っている人は今もなお22万人以上。

4年前に思ったことはいまでも同じだ。日本という国を考えるとき、北日本での未曾有の災害に遭った人たちがいまどうしているのかを知ることが、この国の進んでいる道を判断する大きな指標となる。

ぼくには正しい道を歩んでいるようにはどうしても思えない。

どうしても思えないのだ。