2024年3月12日火曜日

「怒り」はどこへ行った

2011年3月11日の東日本大震災で命を落とされた方々のご冥福を改めて祈るとともに、ご家族ご友人を亡くされた方々に深い哀悼の意を送ります。


13年前、大槌町の避難所で、僕はとても怒っていた。表情にも態度にも出さなかったが、内心ではずっと憤りを抱えていた。変わらなかったからだ。


被災された人達の避難所での生活。春の訪れは近かったとはいえ、体育館の床は凍えるほど冷たく、外からの細かい粉塵が空気中に舞い、食事もほとんど冷たいものばかり。数週間後にトイレがようやく復旧し水も出るようになったけど、風呂やシャワーは限られた場所で限られた時間のみ。何より、とにかくプライバシーと呼べるものがほとんど確保できない生活。そんな状況が何ヶ月も続いていた。


それに比べ、ボランティアの僕らは恵まれていた。帰る場所があるからだ。少々難儀なことがあっても、やがてはそこを去り、温かく快適な場所に帰れる。とは言え、大槌でボランティア活動をしていた間、この「何も変わらない」状況に、常に怒りを覚えていた。


いま、日本で一番安心と安全が必要な人たちが、どうしていつまでも辛い避難所生活を送らなければならないのか。一瞬にしてたくさんのものを失った人たちをいつまでもこんな場所に閉じ込めておくのか。心と体が傷つき、必死の思いで逃げてきた人たちをいつまでこの冷たい床で生活させるのか。


政府、自治体、すべての国民が今こそあらゆるものを脇に置いて最大限の援助を速やかに行うべきじゃないのか。安心して眠れる場所を一刻も早く提供するのがつとめじゃないのか。遅々として進まない状況にとにかく僕は怒っていた。


13年が経ったけど、あの時のあの怒りは未だに思い出すことができる。


そして今年元旦。能登での大きな地震のニュースはここオーストラリアにも届いた。正月の華やかな時間が一瞬にして瓦解した。次々送られてくるニュースは、13年前と同じような内容だった。避難所での生活、水が出ない、トイレが使えない、食事は・・・。変わっていない。一刻も早く安心と安全が必要な人たちに、未だに冷たい床での生活が強いられている。憤る。


でも、なぜか真っ直ぐな感情が湧き起こらなかった。落ち着かないモヤモヤとした気持ちが、その怒りの表出を歪めているように感じていた。


13年前、あの地震と津波の映像を目の当たりにした僕は、まったくためらいなく「行かねば」と思った。しかしいま、僕はまっすぐに能登に行くことを考えもしなかった。そこの人たちの辛さ悲しさは想像に難くない。でも、ここ数年の出来事の多さにおそらく気持ちが麻痺しているのだと思う。ウクライナでの侵略戦争、ガザでの虐殺、アフリカで起きている内戦。目を疑うような出来事が世界中で次々起きている。能登の様子を知るのと同じ精度で、戦争のリアルが世界中から伝えられてくる。そんなニュースをひとつひとつ知るにつれ、僕は不安になる。状況に対する無力感、人間というものに対する猜疑心、そういったものが、底辺を流れる不安と行き場のない絶望に変わっていくのを感じる。怒りというよりも、もやは諦めに近い。分かっている、諦めてはいけないことは。


混沌としたこの状況は、インターネットやSNSの飛躍的進歩によってもたらされたのかもしれない。情報の伝達の早さは言うまでもなく、「誰でも」「いつでも」「なんでも」発言できることが、我々の頭脳をかき乱し、物事を不必要に混乱させ、正解と不正解をもてあそび、真っ直ぐな感情を揶揄したり貶めたり、議論の枝葉末節に膨大な数の言葉を羅列させる。さて自分はいったい何を考え何をしようとしていたのか?


ストレートな気持ちで行動することのなんと難しくなったことか。あの時に覚えた「怒り」は、たくさんの靴で踏みつけられ、土間に投げ捨てられてしまったかのようだ。


どういうことなんだろう。僕自身がどうしようもなく擦れてしまったのか、あるいはこの時代が、我々の感情に多種多様な人工着色料を投げ込んでいるのか。湧き上がる感情と、その帰結であるはずの行動がこうも繋がりにくい。


目を閉じて自分の声を聞くことの大事さを思い出さねば。

2023年3月11日土曜日

12年後の後悔

 12年前、僕はあの甚大な震災直後に岩手県大槌町に行き、そこで医療支援をしていたのだけど、今でも後悔することがある。それはたぶん、未曾有の被災地を目の当たりにして混乱し、気持ちが先走っていたからだと思う。

避難場所となっていた城山の体育館の卓球場を半分に仕切り、僕らは24時間体制の医務室として使っていた。そこは医務室兼生活の場であり、文字通り住み込みの状態だった。沖縄県医師会から派遣された医療従事者達の活動に加えてもらい、そこで寝食を共にしていた。

そのチームには地元の医師、保健師や薬剤師の方々も参加しておられ、その避難所以外からも被災者の方々が訪れ、保健師の方々に至っては訪問看護まで行っていた。すごい機動力だと僕は感心していたし、その手伝いができることが嬉しかった。

避難所生活を余儀なくされている方々を毎日診ていて、そこにいる誰もが地方自治体や国の施策の遅さと足りなさを感じていた。大きなレベルでの問題だけでなく、避難所内でも日々様々な問題が起きて(たとえば水や電気やトイレ、それからインフルエンザや様々な感染症、寝たきりの方の介護問題、急性疾患の対応の遅れ)、そのための対応策や今後起こりえることへの予防策を考えて方針を立てることなども必要だった。

僕はけっこう長くその現場にいたので、前後の成り行きや地元の方々とのネットワークにだんだんと精通し、結果として必然的にチームの取りまとめ役をするようになった。200−300名に渡る避難所内の方々のどなたが医療的な問題を抱えているのか、問題が起きた時の連絡を誰にどのようにするのか、そういったことを新しく参加した医療従事者にオリエンテーションをするのも僕の仕事となった。そんなことも含め、いま思えば僕はとても頑張ってしまったのだと思う。

避難所の方々の状況をもっと良くしたい、その地域への貢献をもっとしなければ・・・、そんな気持ちが、そのチームに負担をかけたのだと思っている。それは、支援のためにやってきた沖縄から派遣された医療従事者に対してではなく、地元大槌の医療従事者の方々に対してだ。

医師、保健師の方々、薬剤師の方々、そして避難所に生活している方の代表の方、そういった人たちに声をかけて、1日の仕事が終わった夕方から毎日ミーティングをしましょうと、声をかけたのだ。それは避難所や地域の方々のために行うことなので、という僕の提案にどなたも納得して(納得せざるを得ない提案だ)参加してくださった。僕は毎日問題点をびっしりノートに書いて、そのミーティングでひとつずつ取り上げた。十数人のチームメンバーに意見を求め、明日からの活動に活かすことを求める。そこで行われたことが、とても有意義で満足のいくものに僕は感じられていた。満足感、充足感、もしかしたら高揚感すら覚えていたかもしれない。

でも、あの時のことを思い出すたびに、僕は自責の念にかられ、心が苦しくなる。

そのミーティングに参加していた地元の方は、当然のことながら誰もがみな被災者だった。家を失い、家族ともども被災し(家族や友人を失った方も多かった)、避難所生活を強いられ、食べる物も満足なものではなく、衣料品も足りず、風呂やシャワーにもこと欠き、安全で安心な日々を送ることが難しい状況を送らざるを得ない。誰もがみな被災者だった。

その単純なことを僕は十分に思いやっていなかったと思う。「みんな」のために、という名目で、目の前にいる方々に無理を押しつけていた。一日の仕事が終わり、それだけでも避難生活をしている人たちにとっては大変なことなのに、夕方からのミーティングに参加してもらい、話し合いが尽きるまで付き合ってもらった。疲れた顔でずっとうつむいていた薬剤師の方を今でも思い出す。

有用なミーティングだったのかも知れない。でも、それはそんなやり方を取らなければならないようなものだったのかと自問すると、けっしてそうではなかったと思う。日中の時間を利用すれば、少々手間はかかるが、何とかなったはずだ。効率とか、もしかしたら「やってる感」を求めて、そんなミーティングを始めたのかもしれない。

あの時、日本で一番休息と休養が必要だった人たちだということを理解していながら、僕は目の前にいる方々に対して思慮を欠いていた。助けに来たぞ、応援に来たぞ、そう言ったはやる気持ちが駆り立てた行き過ぎた行為だったといまは思う。

支援とか援助とかボランティアといった行為は難しい。熟慮することなく支援する立場に立つと、「支援のためには少々の犠牲は必要だろう」という逆説的なことが起こりえる。その犠牲は二次的な被害となり得るにもかかわらず。

あの時の医療支援から戻って来て、あのミーティングのことを何度も思い出してきた。タイムマシンがあれば、その時に戻って自分に耳打ちしたいほどだ。目の前をよく見ろ、大きな視点はイコール冷静な視点ではないぞ、お前の満足のために支援をしているんじゃない、誰が何を必要としているのかまずはそこからだ、急ぐな効率を求めるな、頭を冷やせ。

12年が経った今も、そのことをよく思い出す。ミーティングのことだけでなく、他にも僕はいろんなプレッシャーを回りに与えていたのかもしれないとも。助けに来たんだから、それくらいはいいでしょう、と。

あの時、自分のための時間もままならない中で毎日のミーティングに付き合っていただいた方々に申し訳なかったと思う。と同時に、貴重な時間を使っていただいてありがとうございました、とも。いや、やっぱり申し訳ないの方が立つ。

次にそういった支援をする機会があるかは分からない。でも、もしそんなことがあれば、よく見ようと思う。支援者という視点だけでなく、様々な見方を学ぼう。「寄り添う」という言葉は手垢にまみれてあまり好きな言葉ではないが、その人の横に立ち何が見えるのか何を感じるのか何を求めているのかを思い理解する努力をしよう。

それは生きていく上でも大事なことで、それを気付かせてもらったという意味でも、12年前の経験は僕にとって大きなものだった。

そう締めくくることも、もしかしたら支援者の視点なのかもしれないが。

2022年3月11日金曜日

11年目:「普通」の生活

 ふとした時に災害について考える。いま何かが起きたらどうしたらいいか、起きる予兆をどう判断するか、何を持ち、どこへどうやって逃げるか。優先順位は? 家族との連絡をどうするか。旅行中にこんなことが起きたら? あんなことが起きたら? 食器を洗いながらそんなことを考えたりする。

11年前の東北大震災からだ。

津波直後の岩手沿岸の、あのたくさんの瓦礫を目の当たりにして、僕は言葉が出なかった。一人ひとりの生活がすさまじい暴力になぎ倒された跡にただただ驚いていた。こんなことが本当に起きるんだ・・・。ここで起きたんだ・・・。

僕の住むオーストラリアでも災害は起きる。夏のブッシュファイアー(山火事)は、時にとてつもない規模で森や町を焼く。数年前に起きたブッシュファイアーで、近くの町が一つ消えた。人の命も奪われる。今年もいくつも火事は起きた。

火事だけじゃない。いま東の州では何週間も大雨が続き、たくさんの建物が水に浸かり、多くの人が家を失った。それはまだ進行中だ。

海外を見回せば、それこそ常にどこかで災害が起きている。地震も噴火も洪水も火事も。突然起きて、いままでの生活が失われる。

そして、戦争という人災。とてつもない数の人の命が奪われて、見境なく、あるいは恣意的に街がいくつも壊される。昨日までの生活が、今日消えてしまう。文字通り、突然消えてしまう。

そんなことが本当に起こるのだ。起こっているのだ。

11年前に津波の被害を目撃した自分は、もう普通の生活が当たり前だとは思えなくなった。

いつか必ず何かは起きる。それがいつか、それは何か、どんな規模か、どんな状況か、そんなことはまったく分からないが、でもこの「普通」は永遠ではないと思った方が良い。そう自分に言い聞かせてきた。

もちろん神経症的に怯えて暮らす必要はないが、その想像力を持つことによって、自分にとっての大事なこと、つまり価値について考えるようになる。何よりも、いま現に「普通」が暴力的に奪われている人たちに対して思いを馳せられるようになる。「普通」であることは当たり前のことではなく(もちろん、誰にとっても当たり前であってほしいが)、ありがたいことなのだと知ることができる。ありがたいとは有り難いということ、当然ではないということだ。

その有り難いという気持ちが共有できる世界であってほしい。誰も暴力的に奪われない世界。いっさいの天災が起きない世界・・・、もちろんそんな都合のいい世界なんてあるわけがない。でも、少なくとも暴力的な人災を防ぐことはできるはずだ。普通の有り難さを実感できる人たちが増えていけば。





2021年3月11日木曜日

十年目

十年という歳月を振り返ってみる。うん、長い。いろんなことがあった。いい日もあればまあまあ悪い日もあった。しんどいこともあったけど、そんなに長続きはしなかったな。

言ってみれば、そこそこ平凡な日々。

大槌をはじめ震災と津波を受けた街の人たちにとっては、もちろんそうではなかった。一人ひとりに違う道があって、大変な思いをしながら辿ってきたのだろうなあと思う。いや、辿ったのではなく、一人ひとりが道を作ってきたのだと思う。目の前に広がる荒野に足を踏み出して、一歩一歩踏み固め、道を作ってきたのだと思う。

震災後、岩手県大槌町にほんのちょっとの時間だけど、ぼくはいた。あの時出会った人たちはそれぞれの道を歩み進んでいることだろう。特に中学生だった女の子3人組。今ではもう二十四,五歳だ。その内のひとりエリカちゃん(今はもう、エリカさん、ですね)は、奨学金を得て単身東京に勉強に出て、そのまま仕事に就いた。やや引っ込み思案な彼女にとって、寂しさや辛さは人一倍だったと思う。それでもほんとによく乗り切った。いまの仕事も大変そうだけど、なんともう4年目だという。すごいよ。誰にでも真似できることではない。

あの時に被災した一人ひとりが新しい道を作り進んで行った。崖っぷちの道があったかもしれない。荒涼とした砂漠に細く伸びる道かもしれない。ぬかるみの道、ゴツゴツした岩場を縫う道、濡れた道、藪におおわれた道。開けた稜線の道、谷沢へと落ちる急な道、寂寞とした夜道。その道はみな、元は荒野だった。思い切った一歩を踏み出し、地面を踏み固め、前に進んだからこそ生まれた道だ。不安と悲しみに満ちた世界から足を踏み出したからこそ、その道は生まれた。


後ろを振り返るとそこに道ができていた。でも決して真っ直ぐじゃない。右に曲がり、左に折れ、時には行きつ戻りつ、留まっていたところには小さな広場もできている。十年の歳月の作った道は驚くほど複雑で長い。


振り向いたとき、辿ってきた道を思い返すこともあるだろう。でも間違いなく、一人ひとりがその道の先に立っているのだ。


10年経った今、かの人々は目的地を見いだし力強い一歩を踏んでいるだろう。

2020年3月12日木曜日

九年目

個人的に慌ただしい一年だった。

3年前に一緒に岩手の大槌に行った義父が昨年の8月に亡くなった。85歳だった。
「死ぬ前にちゃんとこの目で見ておかなくちゃあな」と言っていた義父は、東北の東海岸を北は大槌から南は福島・茨城まで、たくさんの街や村や畑や海や山を目に焼き付け、先の言葉を体現するかのように、次第に体調を壊しやがて静かに逝ってしまった。

高校の元体育教師であり、その青年壮年時代をラグビーの選手としてあるいは指導者として過ごしてきた義父は、当時組合運動や社会運動にも加わり、社会や政治に対して常に一家言を持つ人だった。60を過ぎ退職してからはかなり積極的に日本中世界中を旅し、百カ国ちかくを実際に目にしたあとに「日本はな、先進国なんかじゃないぞ。りっぱな後進国だ」と言っていた。このお粗末な政治と政治家たち、理不尽で冷ややかな社会体制、貧しい人困っている人が救われないシステム、従順でお人好しな国民、政治家におもねる人々、選挙に行かない大衆。義父はよくそんな話をしては憤慨していた。

あの東北の旅でも、東北自動車道を北上している最中にそういう話は時々持ち上がっていた。しかし大槌に着いてその復興途中の風景とそこかしこの津波災害の残滓を眺めてからは、その様子が違った。義父はことあるごとに大きなため息を吐き、小さく「ちくしょう」と顔をしかめていた。

その表情は特に福島の海岸線を走っている時に顕著だった。捨てられた街。激しく生い茂る雑草や木々の中に建つ廃墟の街。枝道のすべてに立ち入り禁止のバリケードが張られ、不必要に止まるなと警告している。

助手席に座っていた義父は、窓の外に過ぎ去っていく街や村を見ながら、時に顔をしかめ「悔しいなぁ」と言っていた。

何かができたわけではない。何かをしたからといって、あの災害が防げたわけでもない。何がどう悔しいのかと問われても、きちんと返せる答えはきっとないだろう。

何をしても戻らない。たとえあの時に戻って激しく鐘を鳴らしたとしても、誰も信じないだろうし、何も変えられないだろう。巨大な物質の持つ慣性をちっぽけな手では止められないように、あの時の「時間」は誰にも何にも止めることはできなかった。

その、人の意思や思いなんかでは太刀打ちできないものに対して、つまり、大きな営みに対してまったく無力な人間に対して、義父は「悔しい」と感じたのかもしれない。

一週間にわたる旅を終え、義父はあちらへ行く前の務めを一つ果たしたと言っていた。

あれから9年、ぼくたちは今どの辺にいるのだろう。あの大災害を経て、ぼくたちはいまも助け合い励まし合いゆずりあっているだろうか。幸いにも幸運な側にいた人たちは(もちろんぼくも含め)、そうでなかった人たちのことを今も慮っているだろうか。

災害とは無縁であっても、弱い立場の人を気にかけているだろうか。そしてそれを行動に現しているだろうか。無理に微笑むことはせずとも、誰かに舌打ちをしたり妬みの眼差しを向けたりしていないだろうか。

良いことも悪いことも、様々なことが起こる。人は時に本当に無力だ。その無力さに「悔しい」とつぶやきながら、それでも人は生きていく。学び、努め、歩いて行く。

学び、努め、歩いて行きたい。

2019年3月11日月曜日

八年目

8年目。
あの時中学生だった子が昨年大学を卒業して仕事を始めた。8年とはそれくらい長い時間。
ボランティアで岩手の大槌で働いた後も、日本に帰る度に大槌の復興の状況とそこに住む人たちに会いに行っていた。3,4回は通ったと思う。特に二年半前の訪日の際には、80歳を越える義理の両親と三人で千葉の銚子から車を走らせ大槌を訪れた。そのあとずっと海岸沿いを南下し、地震と津波と原発の被害を受けた町々を通って行った。両親の「死ぬ前にきちんと見ておかなければ」という気持ちがさせたことだ。
でも今回の訪日では、東北へは行かなかった。語弊があるかも知れないが、もう煩わせてはいけないんじゃないかと思ったからだ。復興(という言葉を無邪気に使うつもりはないが)の主役の人々の中に、「進捗を見届けたい」とか「あの人たちはどうしているだろう」とか、そういった僕の側の興味や思い込みで入っていくことに躊躇いを感じたからだ。実は二年前の旅のときにすでにそう感じていた。この違和感は何なのか明確に伝えることは難しいけど、強いて例えれば、観客は役者の作る舞台に「観客として」参加することはできても、舞台そのものには上がれないーーーということだろうか。
応援はする。拍手もする。心を寄せて考えたりもする。でもね、腹をくくって参加しないのであれば、観客として応援に徹するのが礼儀なのかもしれないな。とそう思っている。
8年間、あの日から始まった長い時間を毎日毎日生きてきた人たちに、そう簡単に「寄り添う」なんてできない。おこがましいよ。
大槌のたくさんの人たちの顔が浮かぶ。誰もがあの日のことを思い出しているんだろう。苦しいことや辛いことや寒かったことや会いたい人のことなどを思い出しているんだろう。
どうかお元気で、また明日からお仕事や勉強に精を出して下さい。僕は僕で何かの形で応援しています。

2018年3月11日日曜日

七年目

七年目。昨晩とても久し振りにその時の日記を読み返した。

災害のあと、ぼくは岩手の大槌町で医療ボランティアをしていた。支援物資を目一杯積んだ車を運転し、雪混じりの峠道を越えて大槌に到着した時の驚きを今でも覚えている。その日から城山公民館の臨時医務室で五週間を過ごした。一日一日があっという間だった。たくさんの人に出会った。いろんな話をした。いろんな話を聞いた。

何かの助けになればと思って行ったのだけど、気負いが過ぎたのか、一人で空回りしたり、かえってそこの人たちに無理を強いていたり、日記の中の自分は毎日毎日浮いたり沈んだりを繰り返す。「そこに居続ける人」と「そこをいずれ去る人」との間には大きな河が流れているにもかかわらず、しかしともすると去る人たちはそのことを忘れてしまう。自分が当事者であるかのように考え振る舞ってしまう。ダメだなぁと日記を読み返しながらため息が出る。

五週間が過ぎてその避難所を去るとき、たくさんの人たちが見送ってくれた。「去る人」には帰る場所があり、帰る日があるのだ。ぼくが去った後も、みんなはその避難所でまたいつもの生活が待っている。ぼくは後ろめたかった。来たときは車体が沈むほど荷物が満載だったワゴン車がいまはガランと空っぽだ。城山を去るときの、バックミラーに映る彼ら彼女らの手を振る姿は今でもはっきりと覚えている。

大槌から釜石を経て遠野に向かう道すがら、いくつもの鯉のぼりが川岸に吹かれていた。美しい青空だった。春が来たんだ、ここにも春が来たんだ、と風に流れる鯉のぼりを見ていた。と、ラジオから松任谷由実の「春よ、来い」が流れてきた。ボロボロボロボロ泣きながら、僕はその歌を聞いていた。

七年が過ぎた。あの時出会ったすべての人に七年という時が流れた。中学生だった子が今年大学を卒業した。社会人としてもう立派に働いている子もいる。新しい仕事を見つけた人、住み家を再建した人。でもいまだ避難住宅での生活を強いられている人たちもいる。

もちろんぼくにもその時間が等しく流れた。七年という時間はじゅうぶん長い。いろんなことがあった。大槌にはあの後も数回訪れた。町の復興は緩やかではあるが確実に進んでいたけれど、それよりもはるかに人々の復興が先を行っているように感じた。

もはや何ができるわけでもなく、ただ単に旅人として、大槌の姿を見に行っているだけだ。いやただ一つできるとすれば、あの避難所の辛さ悲しさ、人々の気丈さとたくましさを伝えること。そこにいた方々はみなその時を経て来たのだということを、ぼくは知っている。それは誰もが知っているはずだ。

今日の昼過ぎ、北の空に向かって黙祷を捧げた。一万キロ向こうに住む人たちと、無念に命を失った人たちに祈った。今年も青く美しい春があの地に来ますように、と。