2012年3月11日日曜日

3月11日に


3月11日、朝五時。深夜当直の真っ最中。

いろんなことが胸を去来する。

昨日 FaceBook に書いたものの転載だけれど、正直な自分の気持ちとしてこれを残しておく。



一年前のいま、誰もがいつもの日と同じように過ごしていた。

まさか、まさか、次の日の夜がいつもと全く違う夜になるとは、誰も誰も想像していなかった。
まったく被害を受けなかったぼくですら、そのことを思うだけで胸がとても痛い。きっと大勢の人が、いま同じことを考えているのだろう。

同じ日が明日も来るという保証はない。それでもぼくらは毎日を、今日という一日を、いやだからこそ、大事に大切に生きて行かなくちゃいけないのだと思っている。

どうかどうか、被災された人たちが心穏やかなときを過ごされますように。お亡くなりになった方々が、彼岸で安らかにありますように。

精神の奥深い所で、去年のあの時の驚きと悲しみが渦巻いているような感じがしている。何千万人の人たちと思いがきっとシンクロしているのだろう。轟々と深海流が音を立てて流れているかのように、苦しみや悲しみが、ぼくだけでなく多くの人たちの心の奥底を揺さぶっている。沈黙と祈りをもって、魂よ鎮まりたまえ。



今日は、特別なことは何もできない。
ただ、家族と一緒に黙祷を捧げるだけです。

大槌への旅4:宴の夜



吉里吉里に向かう途中の料亭が、その晩の宴の場所だった。道又先生に連れられて、ぼくら一家もそこへ。たくさんの懐かしい顔ぶれが、次から次へとやってきた。

道又先生夫妻はもちろん、その娘さんの祥江ちゃんも参加。祥江ちゃんは、じつはぼくらの住むオーストラリアのパースに短期ホームステイで昨年やって来た。だから子供たちとも顔見知りだ。彼女のそのホームステイは、あるNGO団体が主催したもので、被災した子供たちに対する支援の一環として行っていたのものだ。災害後のまだ混乱している時期に我が子を外国に送ることに、道又先生も奥さんもだいぶ心配だったらしいが、とても元気になって帰ってきた我が子を見て、行かせて良かったとしみじみおっしゃっていた。祥江ちゃんもそれはそれは楽しく有意義な日々を送っていたらしい。子供のポテンシャルには、いつも驚かされる。

それから、つくし薬局の皆さん。親分の金澤さんをはじめ、あの城山体育館仮設診療所で一緒に働いた薬剤師さんたちもみんな元気そうだ。忘れていけないのは、皆、津波の被災者だということだ。つくし薬局の皆さんは災害後すぐに避難所に薬局を開き、壊滅的打撃を受けた大槌の医療の立ち上げにとても大きな貢献をしてきた。彼ら彼女らはそれぞれに大きな被害を受けていて、本来なら仕事どころじゃなかったはずなのだ。にもかかわらず、とても真摯にそして丁寧に毎日の仕事をこなしていた。


つくし薬局の皆さん
(ボスの金澤さんは残念ながら写ってません)
そのつくし薬局の彼女たちは、その晩の宴の席で、「今だから言いますけど」と前置きしつつ、あの頃の毎日がどんなにたいへんだったかを話してくれた。年頃の女の子が何日もシャワーもお風呂も入れなかったこと、食べたいものを手に入れることがどんなに難しかったかということ。医療班が食べている夕食の匂いがたまらなかったことなど(なんだよ、いっしょにどうって誘ったじゃないかよおと反論はしたのだけど)、笑い話にして語っていたけれど、おそらく語れないような辛いこともきっとたくさんあったはずだ。

小向さんもやって来た。彼女は城山体育館避難所のかつてのリーダー的存在で(本人は「リーダーなんかいや!」とずっと言い続けていたが)、彼女のおかげで避難生活をされている人たちの状況や避難所の問題点などを的確に知ることができ、診療にあたっていた我々はどれだけ助かったことか。その彼女も、昨年の短期沖縄訪問のあと、しばらくは本気で沖縄永住を考えたらしいのだが、けっきょく大槌に仕事が見つかり両親共々ここで暮らしている。大槌のこれからの復興に、彼女のパワーと機転はきっと重要な役割を担っていくはずだ。

個人的にとても嬉しかったのは、ぼくの「教え子」たちが来てくれたことだ。エリカちゃん、ユリアちゃん、コトミちゃん。この、高校生の仲良し3人組(2人は姉妹なのだが)も、当時城山体育館に避難していた。避難所で生活をしているということは、家を失ったということをもちろん意味するのだけど、この仲良し3人組はいつも明るく、ほんとによく笑っていた。彼女たちのいた体育館の一角は、そのおかげで他よりも明るく見えたくらいだ。ちょっとしたきっかけで、ぼくは診療の合間に彼女たちの英語の勉強を見ることになり、いつのまにか彼女たちに「ティーチャー、ティーチャー」と呼ばれるようになった。医者も「先生」と呼ばれるが、違う「先生」をやることになるとはなあと、彼女たちにそう呼ばれるたび照れくさかった。そう、その晩はその3人も来てくれたのだ。お母さんも一緒だ。またこうして彼女たちの笑顔が見られて、ほんとに嬉しかった。

昨年五月に大槌町を去るとき、道又先生は何度も「いやあ、大槌の美味しい魚を食べさせたかったなあ。美味しいお酒を飲ませたかったなあ」とおっしゃっていた。わざわざ沖縄やオーストラリアから来たぼくら医療チームに、何とかお礼をしたいのだけど、こんな状況だからなんにもないんですよと、とても悔しそうだった。

その晩の宴は、美味しい魚とカニがどっさり載ったお膳と、おいしいおいしい地元のお酒。道又先生のあのときの言葉を思い出しつつ、美味しくいただいた。そしてコップや銚子を手に、あちこちテーブルを回って皆の話を聞いて回る。

「じつはあのときは、」という話が、いろんな方から聞けた。知らなかったことばかりだ。やっぱりというか、当然のことながら、みんなみんな本当に大変だった。ぼくがあの時想像していたよりも、ずっとずっと大変だった。今更ながら、ああこうしておけばよかったなあとか、こうしてあげればよかったなあとか、あの時の自分の思いの至らなさに反省しつつ話を聞いていた。

それにしても、皆とても素晴らしい笑顔だった。まだまだ困難な状況が続いているはずなのに、皆生き生きとしている。避難所で会っていたときも、その晩会った人たちは皆笑顔を向けていたけれども、いま思えば、あの時の笑顔は緊張の中の笑顔だったように思う。あのとんでもない日から10ヶ月が経ち、いくらかでも穏やかな日々を送れるようになったのだろう。心から、ほんとによかったと思った。

妻と子供たちも、それぞれにあちこちで話をしている。昨年ぼくが単身で支援に発ったとき、妻はここオーストラリア・バンバリーに子供たちと残り、被災者支援のために地元でチャリティーコンサートをいくつか企画し実行した。現地に行けない身としてのその行動力に、ぼくはすごいと思った。子供たちも、父や母の行動や話を見聞きしてきて、きっとそれぞれに思うことがあっただろう。妻や子たちが、ぼくの知り合った人たちと一緒に話をしているのを見て、とても感慨深かった。十何時間も電車を乗り継いで来たのだけど、今回大槌にこうしてやってきて本当によかった。


みんなで。
ほんとにありがとう。


翌朝、ぼくらは大槌を発った。道又先生の奥さんと、義兄の平野さんに釜石まで送っていただく。なんともありがたく、なんともうれしい。大槌という、それまでまったく知ることのなかった町の人たちと、ぼくら家族はきっとこれからも関わっていくことになると思う。これが「縁」でなくてなんだろう。一期一会、その言葉を噛みしめながら、手を振ってお別れした。

ほんとにありがとうございました。どうか皆さん、これからもずっとお元気で。
それ以外の言葉は思い付かない。

大槌への旅3:点描

道又先生の案内で、この十ヶ月で変わった大槌の風景をさらにいろいろと案内してもらった。写真で紹介する。

道又医院には、沖縄の若松病院スタッフから送られた寄せ書きが張られていた。

一時期百人以上が寝起きしていた城山体育館。いまはもちろん誰もいない。

仮設診療所とつくし薬局が併設されていた城山体育館の遊戯室。いまはもう、卓球台がいくつか見えるだけ。

大きなプレハブ校舎。大槌町のほとんどの小中学校は一ヶ所に集められた。

弓道場の避難所で奮闘されていた植田先生も、仮設診療所をオープンして以前のスタッフと診療をはじめていた。相変わらずの元気さと明るさに圧倒される。
藤丸先生も診療所を開いていたが、検査中でお会いできず残念。

つくし薬局、仮設とはいえ立派だ。

大槌病院。これもまだ仮設。院長、副院長ともとても元気でした。

大槌町のあちこちに、プレハブの仮設店舗が見られた。
びっくりするくらい多種多様な店舗が隣り合っている。
店の明かり一つひとつが、人々の支えになっているに違いない。

大槌への旅2:変わりゆく風景



釜石駅、昼前。雪景色だった内陸とは打って変わって、沿岸は雪など全くないよく晴れた青空だった。

内陸から東に向かう鉄道は、釜石駅を終点とする。一年前まではそこから南北に線路が延び、東北沿岸を延々と列車で旅することができた、という。だけどその線路は沿岸のあらゆる場所で破壊されてしまった。釜石・大槌間ももはや鉄道では行けない。

そういうわけで、はじめは大槌までバスで行くことを考えていたが、昨年の仮設診療所でいっしょに働かせてもらった大槌町の地元開業医、道又先生が釜石まで迎えに来てくれるという。宿の手配もお願いしていたのだが、建築作業に携わる工事関係者が長期滞在をしているのでどこもいっぱいらしく、けっきょく道又先生のお姉さん宅に泊めていただけることになった。五人家族のぼくらのために、ずいぶん骨を折っていただいたことになる。なんともありがたいことだと思った。

道又先生は8人乗りのタクシーで駅に迎えてきていた。肩を抱き合い再会を喜ぶ。あの時のままの人なつっこい笑顔で、妻や子供たちに一人ひとり「やあ、よう来ました! 遠かったでしょう!」と声をかけていた。

大槌に向かう途中で何度かタクシーを止めつつ、釜石から大槌にいたる被災地域を案内してくれた。鵜住居、片岸・・・、山裾に広がるわずかな平地が、ことごとく被害に遭った。8ヶ月前、あんなにあったガレキがほとんど撤去され、建物の基礎だけが広がる平野となっていた。巨大な防波堤が積み木のようにひっくり返っている港、峡谷の奥の方まで押し流された大型トレーラー、壁も天井も屋根も引きはがされ鉄骨だけになった建物。その一つひとつに妻も子供たちも言葉を失っていたようだった。



釜石市内 
片岸のあたり
大槌にいた五週間、ぼくは毎日こんな風景を見て暮らしていたが、今また改めて見ると、やはり胸が苦しくなる。この風景の向こうで起こったできごとの大きさ重さを思うと、胸の奥がずんと重くなる。

沿岸の道路を北に上がりトンネルを抜け、大槌に入る。

街に入る十字路の脇にあのローソンが見える。その向かいのショッピングセンター・マストが再開している。駐車場が整地され、買い物客の車が駐まっている。空にそびえる看板も輝いていた。すごい。我がことのように嬉しい。


災害のあと、まっさきにオープンしたのが、このローソン 
大槌の人たちが待ちわびたマストの再開

しかし、十字路を折れ街へと下ると道路の両脇には災害のあとがまだしっかりと残っていた。ガレキはここでもほとんど撤去され、建物の基礎が道路脇に整然と並んでいる。津波のあと、ガレキに覆われた街を見て、道又先生は「見通しがよくなって分かったけど、海ってこんなに近かったんだ」と思ったのだとおっしゃっていた。だけどこうやってガレキすらない街を見ると、真っ平らな街の向こうには、さらにさらに海が近く見えると言う。


家屋の基礎だけが残る、津波の爪痕

城山からの眺め

津波に破壊された大量の自動車は、こうして一ヶ所に集められていた

車窓からの大槌町の眺め
東北の太平洋沿岸、リアス式海岸に点在する街はどこも、急峻な山間から海に開くわずかな平地に人を住まわせてきた。この風景を見て、そのことを悲しいくらいに実感する。

でも、こうも思える。さあ、また一から始めよう。その準備が整った。よそ者の身勝手な思いかもしれないけれど、どこから手を付ければいいのか途方に暮れていたあの頃からすれば、大槌はいまスタート地点にあると言えるんじゃないだろうか。走り出す支度のできたいま、重要なのはゴールをどこに設定するかだろう。

皮肉なことだけど、津波という災害が起きなければ、ぼくは岩手の沿岸に位置する小さな街、大槌にこれほど関わることはなかった。旅の多かったぼくにはいくつもの「第二の故郷」があるが、当初読み方さえ知らなかった「大槌(おおつち)」もまた、個人として深く関わり、おおぜいの人と知り合った大事な場所だ。でもぼくはこの街の本来の姿を何一つ知らない。この街の街並も、港や市場も、飯屋も居酒屋も、祭り神事も、どれも知らない。大槌のことを思えば思うほど、一度でいいからこの街の本当の姿を見ておきたかったと思う。

道又先生の仮設診療所、その隣の道又先生のお姉さん夫婦の営む薬局。ぼくらはその家の二階にその晩泊めていただくことになった。

その夜は、道又先生主催の宴。あの頃の懐かしい方々とおおぜい会うことになっていた。ああ、みんなどうしているだろう。

大槌への旅1:盛岡にて

今年の一月、ぼくはふたたび岩手県大槌町を訪ねた。昨年五月以来だから、約8ヶ月ぶりということになる。今回は単身ではなく、妻と子供たち三人をつれての訪問だった。

震災前に計画していた家族全員での久しぶりの日本滞在ホリデーで、妻の実家の銚子で年末年始を過ごし、そのあとは念願の北海道でのスキー。その北海道の帰りに列車を乗り継ぎ、盛岡を経由し釜石、大槌へと向かった。

盛岡の近くには、大槌の避難所で知り合った山田さんというおばあちゃん(と呼ぶにはまだちょっと若いけれど。ゴメンね山田さん)が生活されていて、ぼくは昨年五月に大槌を去ったあとも、何度か山田さんと手紙のやり取りをしていた。大槌の避難所から頼る方もない場所に移り、一人で生活をされている山田さんがどうされているのか、そのことが気がかりだった。盛岡を拠点としてるボランティア団体に、こういう方がこれこれの場所で暮らしているので定期的に様子を見てきてくれないかと、インターネットを通してお願いしたこともあった。しかし盛岡とオーストラリアの距離はいかんともしがたく、隔靴掻痒という表現の通りのもどかしさだった。

避難所で生活されていた時の山田さんは、ふいに押し寄せてくる不安や緊張で脈が早くなったり胸が苦しくなったりと、心と体のバランスの取れてない状態だった。自分でまったくコントロールできない「発作」が、早朝であろうと夜中であろうと起きるので、とても辛かったと思う。その避難所に24時間体制で仮設診療所を運営していたぼくらだったが、特別な検査ができるわけではなし、入院施設があるわけではなし、その場にある人的物的資源をなんとかしながら診療に当たっていた。もちろんぼくらに対応できないことは、釜石や宮古の二次三次救急施設と連絡を取り、搬送や入院といった手はずは取っていたが、それらの施設も震災と津波の影響でベッド数が限られていたわけで、基本的にはここの避難所の問題はぼくらで何とかしようと考えていた。

そんな状況だから、特別なことは山田さんにしてあげられなかった。山田さんだけでなく、その避難所にいたすべての方々に対してもそうだった。ぼくらができることは、「ここに診療所がある」ということを避難所の方々に知ってもらい、いくばくかの安心を届けるだけだったのかもしれない。

山田さんのその「発作」は、おそらく強度のストレスによるものだろうから、降圧剤などといった薬よりも、いわゆる安定剤や眠剤(それは震災前から山田さんが摂っていたものだ)と、「ここは安全な場所だ」「いつでも助けてくれる人たちがいる」ということを知ってもらうことがなにより大切だろうと思った。胸の苦しさを訴え、とんでもなく血圧が上がった状態でやって来た山田さんに、落ち着いた態度で対応し、脈をとり胸に聴診器を当て、ときにはガチガチに強ばった肩をマッサージして、「ああ、こんなに緊張していたら血圧も上がるよ」と笑って話しかけたりした。それだけで、血圧はスーッと下がり胸の苦しさも消えていった。

ぼくは大槌の城山体育館避難所のその仮設診療所に五週間いたので、避難されているほとんどの方と顔見知りになり、特に山田さんにとっては、ぼくは主治医みたいな存在だった。だから昨年五月にぼくが去るとき、山田さんは涙を浮かべながら「これからどうしたらいいの」と訴えていた。ほんとに申し訳なかった。これから仮設診療所は縮小され、いずれ撤退する。町の開業医の先生方や仮設病院が大槌の医療をふたたび担うという計画はすでに始動し、診療の移行はかなりうまくいっているように思える。しかし避難所の方々にとって、この避難所から24時間体制の診療所がなくなるということは大きな意味を持つ。

そういう背景があった。だからぼくは山田さんが気がかりだった。大槌を離れ住み慣れない場所で生活を始めたと知って、よけいに心配だった。手紙での山田さんは、相変わらず突然の不安に襲われていたようで、なかなか気の許せる医師に巡り会えないと嘆いていた。

盛岡のホテルのロビーで、ぼくは8ヶ月ぶりに山田さんに会った。山田さんは、会うなりぼくの両手をぎゅっと握り、ボロボロと涙をこぼした。小さな体のどこにその力があるのかというほど、強い力だった。返す言葉はなかった。地震、津波、避難所生活、体と心の不調、不慣れな場所での生活。ああ、苦しかっただろうなあ、たいへんだっただろうなあと、そんなことしか頭に浮かばない。

しばらくロビーのソファで二人きりで話をした。話を聞いてくれる医者が地元で見つかったこと、一人暮らしの山田さんを定期的に連れ出してくれるボランティアの人たちがいるということ、昔から好きだった折り紙をまた始めたこと、そして(もしかしたらぼくを安心させるためなのかもしれないけど)、たいへんなことは多いけれど元気で暮らしていると山田さんは言った。太平洋沿岸の大槌に比べ、内陸の盛岡は雪が多くてたいへんだと笑っていた。

そのあと、ぼくら家族と山田さんとでいっしょに夕食に出かけた。せっかく盛岡なんだからと、わんこそばの店を選んだ。15歳の息子のあまり芳しくないわんこそばの記録を冷やかしながら、みんなで楽しい時間を過ごした。山田さんはよく笑っていた。

山田さんからぼくらにお土産があった。折り紙だ。でも、折り鶴といったような小さなものではない。小さな折り紙を何百も組み合わせたすごい作品だ。いくつかいただいたが、圧巻だったのは白鳥と人形。何日もかかって折ったのだという。ぼくもびっくりしたが、娘たちもとても驚いていた。ぼくたちからは、北海道の美味しいもの詰め合わせ。一人暮らしの食卓にちょっとでも彩りが添えられたらと思って。

その夜はそれで別れた。翌朝、ぼくたちは釜石に向かうことになっていた。山田さんは駅までわざわざぼくらを見送りに来てくれた。最後の最後までいっしょにいたいのだと言って、なんとぼくらといっしょに電車に乗り、花巻駅まで山田さんは付き添った。花巻に行く途中、自分の今住んでいるというアパートを電車の窓の向こうに指さした。線路の脇にぽつんと建つ、鮮やかなレモン色の小さな2階建てのアパート。もう電車の音にも慣れました、と山田さんはまた笑った。

花巻駅のホームに立って手を振る山田さんが、急に小さく見えた。寂しそうに見えた。汽車はホームを離れ内陸から沿岸に向かって進み始める。ぼくらは旅を続け、山田さんはいつもの生活に戻る。

別れが辛いのなら、こうして会いに行くことはいいことなのだろうかと思ったりもする。会わなければ辛い別れもない。とくにこうして、妻も子供たちも連れて会いに行くことが、余計に山田さんを寂しくさせたんじゃないかと思ったりもする。祭りの後の寂しさは、よけいに悲しく心に染みる。

もちろん分かっている。辛くたって、会う喜びはそれを上まるものさ。その喜びが単調な生活の糧になり得るのさ。それはまったくそのとおりだ。でも、それでも思ってしまう。こうして会いに行ってほんとによかったのかなあ、と。

釜石が近づく。何度か車で走った道路の脇を線路が走る。見覚えのある街並が見えてきた。釜石製鉄所の煙突から真っ白な煙がもうもうと立ち上がっている。津波で破壊された製鉄所がふたたび稼働したのだ。すごい。


ああ、やっぱり時が経ったのだと実感した。


釜石新日鉄製鉄所から昇る煙