2012年3月11日日曜日

大槌への旅4:宴の夜



吉里吉里に向かう途中の料亭が、その晩の宴の場所だった。道又先生に連れられて、ぼくら一家もそこへ。たくさんの懐かしい顔ぶれが、次から次へとやってきた。

道又先生夫妻はもちろん、その娘さんの祥江ちゃんも参加。祥江ちゃんは、じつはぼくらの住むオーストラリアのパースに短期ホームステイで昨年やって来た。だから子供たちとも顔見知りだ。彼女のそのホームステイは、あるNGO団体が主催したもので、被災した子供たちに対する支援の一環として行っていたのものだ。災害後のまだ混乱している時期に我が子を外国に送ることに、道又先生も奥さんもだいぶ心配だったらしいが、とても元気になって帰ってきた我が子を見て、行かせて良かったとしみじみおっしゃっていた。祥江ちゃんもそれはそれは楽しく有意義な日々を送っていたらしい。子供のポテンシャルには、いつも驚かされる。

それから、つくし薬局の皆さん。親分の金澤さんをはじめ、あの城山体育館仮設診療所で一緒に働いた薬剤師さんたちもみんな元気そうだ。忘れていけないのは、皆、津波の被災者だということだ。つくし薬局の皆さんは災害後すぐに避難所に薬局を開き、壊滅的打撃を受けた大槌の医療の立ち上げにとても大きな貢献をしてきた。彼ら彼女らはそれぞれに大きな被害を受けていて、本来なら仕事どころじゃなかったはずなのだ。にもかかわらず、とても真摯にそして丁寧に毎日の仕事をこなしていた。


つくし薬局の皆さん
(ボスの金澤さんは残念ながら写ってません)
そのつくし薬局の彼女たちは、その晩の宴の席で、「今だから言いますけど」と前置きしつつ、あの頃の毎日がどんなにたいへんだったかを話してくれた。年頃の女の子が何日もシャワーもお風呂も入れなかったこと、食べたいものを手に入れることがどんなに難しかったかということ。医療班が食べている夕食の匂いがたまらなかったことなど(なんだよ、いっしょにどうって誘ったじゃないかよおと反論はしたのだけど)、笑い話にして語っていたけれど、おそらく語れないような辛いこともきっとたくさんあったはずだ。

小向さんもやって来た。彼女は城山体育館避難所のかつてのリーダー的存在で(本人は「リーダーなんかいや!」とずっと言い続けていたが)、彼女のおかげで避難生活をされている人たちの状況や避難所の問題点などを的確に知ることができ、診療にあたっていた我々はどれだけ助かったことか。その彼女も、昨年の短期沖縄訪問のあと、しばらくは本気で沖縄永住を考えたらしいのだが、けっきょく大槌に仕事が見つかり両親共々ここで暮らしている。大槌のこれからの復興に、彼女のパワーと機転はきっと重要な役割を担っていくはずだ。

個人的にとても嬉しかったのは、ぼくの「教え子」たちが来てくれたことだ。エリカちゃん、ユリアちゃん、コトミちゃん。この、高校生の仲良し3人組(2人は姉妹なのだが)も、当時城山体育館に避難していた。避難所で生活をしているということは、家を失ったということをもちろん意味するのだけど、この仲良し3人組はいつも明るく、ほんとによく笑っていた。彼女たちのいた体育館の一角は、そのおかげで他よりも明るく見えたくらいだ。ちょっとしたきっかけで、ぼくは診療の合間に彼女たちの英語の勉強を見ることになり、いつのまにか彼女たちに「ティーチャー、ティーチャー」と呼ばれるようになった。医者も「先生」と呼ばれるが、違う「先生」をやることになるとはなあと、彼女たちにそう呼ばれるたび照れくさかった。そう、その晩はその3人も来てくれたのだ。お母さんも一緒だ。またこうして彼女たちの笑顔が見られて、ほんとに嬉しかった。

昨年五月に大槌町を去るとき、道又先生は何度も「いやあ、大槌の美味しい魚を食べさせたかったなあ。美味しいお酒を飲ませたかったなあ」とおっしゃっていた。わざわざ沖縄やオーストラリアから来たぼくら医療チームに、何とかお礼をしたいのだけど、こんな状況だからなんにもないんですよと、とても悔しそうだった。

その晩の宴は、美味しい魚とカニがどっさり載ったお膳と、おいしいおいしい地元のお酒。道又先生のあのときの言葉を思い出しつつ、美味しくいただいた。そしてコップや銚子を手に、あちこちテーブルを回って皆の話を聞いて回る。

「じつはあのときは、」という話が、いろんな方から聞けた。知らなかったことばかりだ。やっぱりというか、当然のことながら、みんなみんな本当に大変だった。ぼくがあの時想像していたよりも、ずっとずっと大変だった。今更ながら、ああこうしておけばよかったなあとか、こうしてあげればよかったなあとか、あの時の自分の思いの至らなさに反省しつつ話を聞いていた。

それにしても、皆とても素晴らしい笑顔だった。まだまだ困難な状況が続いているはずなのに、皆生き生きとしている。避難所で会っていたときも、その晩会った人たちは皆笑顔を向けていたけれども、いま思えば、あの時の笑顔は緊張の中の笑顔だったように思う。あのとんでもない日から10ヶ月が経ち、いくらかでも穏やかな日々を送れるようになったのだろう。心から、ほんとによかったと思った。

妻と子供たちも、それぞれにあちこちで話をしている。昨年ぼくが単身で支援に発ったとき、妻はここオーストラリア・バンバリーに子供たちと残り、被災者支援のために地元でチャリティーコンサートをいくつか企画し実行した。現地に行けない身としてのその行動力に、ぼくはすごいと思った。子供たちも、父や母の行動や話を見聞きしてきて、きっとそれぞれに思うことがあっただろう。妻や子たちが、ぼくの知り合った人たちと一緒に話をしているのを見て、とても感慨深かった。十何時間も電車を乗り継いで来たのだけど、今回大槌にこうしてやってきて本当によかった。


みんなで。
ほんとにありがとう。


翌朝、ぼくらは大槌を発った。道又先生の奥さんと、義兄の平野さんに釜石まで送っていただく。なんともありがたく、なんともうれしい。大槌という、それまでまったく知ることのなかった町の人たちと、ぼくら家族はきっとこれからも関わっていくことになると思う。これが「縁」でなくてなんだろう。一期一会、その言葉を噛みしめながら、手を振ってお別れした。

ほんとにありがとうございました。どうか皆さん、これからもずっとお元気で。
それ以外の言葉は思い付かない。

2 件のコメント:

  1. 山内先生、久しぶりです。先生も元気そうですね!!自分も大槌町行きたかった!!

    道又先生も懐かしい!!救護所を離れる時、道又先生に「就職先がなくなったらうちの病院においで。」と言われたこと(笑)を今でも忘れません。

    あれから一年…自分は一週間だったけど…
    看護師として、人として、大きな経験をしました。

    自分がやったことは大したことではないけど…「全ての被災者の為に」という医療者として熱い使命感は今でも忘れません。
    報告ありがとうございました。

    ハートライフ病院 真栄城克匡

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    1. 真栄城さん。
      お元気そうでなによりです。
      ほんとに大きな経験でしたね。
      これからも、機会がある度に大槌を訪れようと思います。
      忘れないことが、なによりぼくらにできることでしょう。

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