釜石駅、昼前。雪景色だった内陸とは打って変わって、沿岸は雪など全くないよく晴れた青空だった。
内陸から東に向かう鉄道は、釜石駅を終点とする。一年前まではそこから南北に線路が延び、東北沿岸を延々と列車で旅することができた、という。だけどその線路は沿岸のあらゆる場所で破壊されてしまった。釜石・大槌間ももはや鉄道では行けない。
そういうわけで、はじめは大槌までバスで行くことを考えていたが、昨年の仮設診療所でいっしょに働かせてもらった大槌町の地元開業医、道又先生が釜石まで迎えに来てくれるという。宿の手配もお願いしていたのだが、建築作業に携わる工事関係者が長期滞在をしているのでどこもいっぱいらしく、けっきょく道又先生のお姉さん宅に泊めていただけることになった。五人家族のぼくらのために、ずいぶん骨を折っていただいたことになる。なんともありがたいことだと思った。
道又先生は8人乗りのタクシーで駅に迎えてきていた。肩を抱き合い再会を喜ぶ。あの時のままの人なつっこい笑顔で、妻や子供たちに一人ひとり「やあ、よう来ました! 遠かったでしょう!」と声をかけていた。
大槌に向かう途中で何度かタクシーを止めつつ、釜石から大槌にいたる被災地域を案内してくれた。鵜住居、片岸・・・、山裾に広がるわずかな平地が、ことごとく被害に遭った。8ヶ月前、あんなにあったガレキがほとんど撤去され、建物の基礎だけが広がる平野となっていた。巨大な防波堤が積み木のようにひっくり返っている港、峡谷の奥の方まで押し流された大型トレーラー、壁も天井も屋根も引きはがされ鉄骨だけになった建物。その一つひとつに妻も子供たちも言葉を失っていたようだった。
大槌にいた五週間、ぼくは毎日こんな風景を見て暮らしていたが、今また改めて見ると、やはり胸が苦しくなる。この風景の向こうで起こったできごとの大きさ重さを思うと、胸の奥がずんと重くなる。
沿岸の道路を北に上がりトンネルを抜け、大槌に入る。
街に入る十字路の脇にあのローソンが見える。その向かいのショッピングセンター・マストが再開している。駐車場が整地され、買い物客の車が駐まっている。空にそびえる看板も輝いていた。すごい。我がことのように嬉しい。
災害のあと、まっさきにオープンしたのが、このローソン |
大槌の人たちが待ちわびたマストの再開 |
しかし、十字路を折れ街へと下ると道路の両脇には災害のあとがまだしっかりと残っていた。ガレキはここでもほとんど撤去され、建物の基礎が道路脇に整然と並んでいる。津波のあと、ガレキに覆われた街を見て、道又先生は「見通しがよくなって分かったけど、海ってこんなに近かったんだ」と思ったのだとおっしゃっていた。だけどこうやってガレキすらない街を見ると、真っ平らな街の向こうには、さらにさらに海が近く見えると言う。
家屋の基礎だけが残る、津波の爪痕 |
城山からの眺め |
津波に破壊された大量の自動車は、こうして一ヶ所に集められていた |
車窓からの大槌町の眺め |
東北の太平洋沿岸、リアス式海岸に点在する街はどこも、急峻な山間から海に開くわずかな平地に人を住まわせてきた。この風景を見て、そのことを悲しいくらいに実感する。
でも、こうも思える。さあ、また一から始めよう。その準備が整った。よそ者の身勝手な思いかもしれないけれど、どこから手を付ければいいのか途方に暮れていたあの頃からすれば、大槌はいまスタート地点にあると言えるんじゃないだろうか。走り出す支度のできたいま、重要なのはゴールをどこに設定するかだろう。
皮肉なことだけど、津波という災害が起きなければ、ぼくは岩手の沿岸に位置する小さな街、大槌にこれほど関わることはなかった。旅の多かったぼくにはいくつもの「第二の故郷」があるが、当初読み方さえ知らなかった「大槌(おおつち)」もまた、個人として深く関わり、おおぜいの人と知り合った大事な場所だ。でもぼくはこの街の本来の姿を何一つ知らない。この街の街並も、港や市場も、飯屋も居酒屋も、祭り神事も、どれも知らない。大槌のことを思えば思うほど、一度でいいからこの街の本当の姿を見ておきたかったと思う。
道又先生の仮設診療所、その隣の道又先生のお姉さん夫婦の営む薬局。ぼくらはその家の二階にその晩泊めていただくことになった。
その夜は、道又先生主催の宴。あの頃の懐かしい方々とおおぜい会うことになっていた。ああ、みんなどうしているだろう。
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