今年の一月、ぼくはふたたび岩手県大槌町を訪ねた。昨年五月以来だから、約8ヶ月ぶりということになる。今回は単身ではなく、妻と子供たち三人をつれての訪問だった。
震災前に計画していた家族全員での久しぶりの日本滞在ホリデーで、妻の実家の銚子で年末年始を過ごし、そのあとは念願の北海道でのスキー。その北海道の帰りに列車を乗り継ぎ、盛岡を経由し釜石、大槌へと向かった。
盛岡の近くには、大槌の避難所で知り合った山田さんというおばあちゃん(と呼ぶにはまだちょっと若いけれど。ゴメンね山田さん)が生活されていて、ぼくは昨年五月に大槌を去ったあとも、何度か山田さんと手紙のやり取りをしていた。大槌の避難所から頼る方もない場所に移り、一人で生活をされている山田さんがどうされているのか、そのことが気がかりだった。盛岡を拠点としてるボランティア団体に、こういう方がこれこれの場所で暮らしているので定期的に様子を見てきてくれないかと、インターネットを通してお願いしたこともあった。しかし盛岡とオーストラリアの距離はいかんともしがたく、隔靴掻痒という表現の通りのもどかしさだった。
避難所で生活されていた時の山田さんは、ふいに押し寄せてくる不安や緊張で脈が早くなったり胸が苦しくなったりと、心と体のバランスの取れてない状態だった。自分でまったくコントロールできない「発作」が、早朝であろうと夜中であろうと起きるので、とても辛かったと思う。その避難所に24時間体制で仮設診療所を運営していたぼくらだったが、特別な検査ができるわけではなし、入院施設があるわけではなし、その場にある人的物的資源をなんとかしながら診療に当たっていた。もちろんぼくらに対応できないことは、釜石や宮古の二次三次救急施設と連絡を取り、搬送や入院といった手はずは取っていたが、それらの施設も震災と津波の影響でベッド数が限られていたわけで、基本的にはここの避難所の問題はぼくらで何とかしようと考えていた。
そんな状況だから、特別なことは山田さんにしてあげられなかった。山田さんだけでなく、その避難所にいたすべての方々に対してもそうだった。ぼくらができることは、「ここに診療所がある」ということを避難所の方々に知ってもらい、いくばくかの安心を届けるだけだったのかもしれない。
山田さんのその「発作」は、おそらく強度のストレスによるものだろうから、降圧剤などといった薬よりも、いわゆる安定剤や眠剤(それは震災前から山田さんが摂っていたものだ)と、「ここは安全な場所だ」「いつでも助けてくれる人たちがいる」ということを知ってもらうことがなにより大切だろうと思った。胸の苦しさを訴え、とんでもなく血圧が上がった状態でやって来た山田さんに、落ち着いた態度で対応し、脈をとり胸に聴診器を当て、ときにはガチガチに強ばった肩をマッサージして、「ああ、こんなに緊張していたら血圧も上がるよ」と笑って話しかけたりした。それだけで、血圧はスーッと下がり胸の苦しさも消えていった。
ぼくは大槌の城山体育館避難所のその仮設診療所に五週間いたので、避難されているほとんどの方と顔見知りになり、特に山田さんにとっては、ぼくは主治医みたいな存在だった。だから昨年五月にぼくが去るとき、山田さんは涙を浮かべながら「これからどうしたらいいの」と訴えていた。ほんとに申し訳なかった。これから仮設診療所は縮小され、いずれ撤退する。町の開業医の先生方や仮設病院が大槌の医療をふたたび担うという計画はすでに始動し、診療の移行はかなりうまくいっているように思える。しかし避難所の方々にとって、この避難所から24時間体制の診療所がなくなるということは大きな意味を持つ。
そういう背景があった。だからぼくは山田さんが気がかりだった。大槌を離れ住み慣れない場所で生活を始めたと知って、よけいに心配だった。手紙での山田さんは、相変わらず突然の不安に襲われていたようで、なかなか気の許せる医師に巡り会えないと嘆いていた。
盛岡のホテルのロビーで、ぼくは8ヶ月ぶりに山田さんに会った。山田さんは、会うなりぼくの両手をぎゅっと握り、ボロボロと涙をこぼした。小さな体のどこにその力があるのかというほど、強い力だった。返す言葉はなかった。地震、津波、避難所生活、体と心の不調、不慣れな場所での生活。ああ、苦しかっただろうなあ、たいへんだっただろうなあと、そんなことしか頭に浮かばない。
しばらくロビーのソファで二人きりで話をした。話を聞いてくれる医者が地元で見つかったこと、一人暮らしの山田さんを定期的に連れ出してくれるボランティアの人たちがいるということ、昔から好きだった折り紙をまた始めたこと、そして(もしかしたらぼくを安心させるためなのかもしれないけど)、たいへんなことは多いけれど元気で暮らしていると山田さんは言った。太平洋沿岸の大槌に比べ、内陸の盛岡は雪が多くてたいへんだと笑っていた。
そのあと、ぼくら家族と山田さんとでいっしょに夕食に出かけた。せっかく盛岡なんだからと、わんこそばの店を選んだ。15歳の息子のあまり芳しくないわんこそばの記録を冷やかしながら、みんなで楽しい時間を過ごした。山田さんはよく笑っていた。
山田さんからぼくらにお土産があった。折り紙だ。でも、折り鶴といったような小さなものではない。小さな折り紙を何百も組み合わせたすごい作品だ。いくつかいただいたが、圧巻だったのは白鳥と人形。何日もかかって折ったのだという。ぼくもびっくりしたが、娘たちもとても驚いていた。ぼくたちからは、北海道の美味しいもの詰め合わせ。一人暮らしの食卓にちょっとでも彩りが添えられたらと思って。
その夜はそれで別れた。翌朝、ぼくたちは釜石に向かうことになっていた。山田さんは駅までわざわざぼくらを見送りに来てくれた。最後の最後までいっしょにいたいのだと言って、なんとぼくらといっしょに電車に乗り、花巻駅まで山田さんは付き添った。花巻に行く途中、自分の今住んでいるというアパートを電車の窓の向こうに指さした。線路の脇にぽつんと建つ、鮮やかなレモン色の小さな2階建てのアパート。もう電車の音にも慣れました、と山田さんはまた笑った。
花巻駅のホームに立って手を振る山田さんが、急に小さく見えた。寂しそうに見えた。汽車はホームを離れ内陸から沿岸に向かって進み始める。ぼくらは旅を続け、山田さんはいつもの生活に戻る。
別れが辛いのなら、こうして会いに行くことはいいことなのだろうかと思ったりもする。会わなければ辛い別れもない。とくにこうして、妻も子供たちも連れて会いに行くことが、余計に山田さんを寂しくさせたんじゃないかと思ったりもする。祭りの後の寂しさは、よけいに悲しく心に染みる。
もちろん分かっている。辛くたって、会う喜びはそれを上まるものさ。その喜びが単調な生活の糧になり得るのさ。それはまったくそのとおりだ。でも、それでも思ってしまう。こうして会いに行ってほんとによかったのかなあ、と。
釜石が近づく。何度か車で走った道路の脇を線路が走る。見覚えのある街並が見えてきた。釜石製鉄所の煙突から真っ白な煙がもうもうと立ち上がっている。津波で破壊された製鉄所がふたたび稼働したのだ。すごい。
ああ、やっぱり時が経ったのだと実感した。
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釜石新日鉄製鉄所から昇る煙 |