2011年3月31日木曜日

資金援助について

前々回のブログで、資金援助のことをきちんと書きますと言いました。

いろいろ考えました。前々回、ぼくは役割分担ということでいいじゃないかというようなことを書きましたが、よく考えると、そう単純じゃないということに気づきました。

結論から言うと、不特定多数の方に向けて資金援助を募ることは、今回のぼくの活動にはそぐわないと思いました。

これは、まったくもって、ぼく個人の思いでぼく個人が始めたことです。もちろん家族の理解と職場の応援があってのことだということはとても重要なことです。大事なのは、「一人の人間」がそうしたいと思いそうしているだけだということです。

それはつまり、その一人の人間の事情で、いくらでもこの活動は変化する可能性があるということです。

たとえば、ぼくが東北に向かう初日に交通事故にでも遭ったとしましょう。そうすると、このプロジェクトはこれでお終いです。ぼくの意志も準備も、すべてそこで途切れてしまいます。もしこの活動に、「不特定多数の方」の寄付金が注ぎ込まれていたとしたら、ぼくはその人たちの願いを叶えられなかったことになります。いとも簡単にそういうことは起こりえます。

極端なたとえに聞こえるかもしれませんが、つまりは、個人の活動、もっといえば、万が一の時にバックアップがとれないレベルの活動には、不特定多数の方々の資金援助はそぐわないんじゃないかと思ったわけです。

さらにいえば、そういった資金をいただくことによって、ぼく自身の自発性のようなものも少し変化するような気がしました。期待とか信頼とか、そういったものが人を勇気づけることはよくわかります。と同時に、精神のしなやかさが少し歪んでしまうのも否めないと思うのです。もちろんこれはまったく個人的な感じ方なので、ぼくだけが感じることかもしれません。

そういったことを考えると、不特定多数の方の資金援助は、少々のアクシデントがあろうとも、その意志と目的を完遂できるシステムを備えた「ボランティア団体」になされるべきだと思います。ぼくは「団体」の主催者でもなければメンバーでもありません。そういった団体に寄付をすることの方が、実質的に被災者の方々へのより実効のある援助につながるのだと確信します。

そういうわけで、ぼくは不特定多数の方への資金援助のお願いはやめにしました。基本的にこれはぼくが勝手に始めたボランティアです。ある程度の自腹はもとより覚悟をして始めたことです。

ただし、現実的には、何人かの友人から援助を受けました。いわゆる「カンパ」というやつです。彼らはぼくのことをよく知っていて、友人としてぼくを信頼してくれていて、もちろんぼくが個人としてボランティアに行くというストーリーとその背景もよく理解してくれています。ぼくはそのことをとても嬉しく思うし、ものすごく感謝しています。ぼくは友人らからのカンパをありがたく受け取りました。

友人からのカンパは、「不特定多数の方」からの資金援助とは異なります。ぼく個人だからこそいただいたカンパという背景と、「不特定多数の方」の被災地の方々を援助したいという思いとはベクトルが一緒ではないと思います。

そういうことなので、ぼく個人に当てる資金援助は、ぼくをよく知る友人だけとするのが妥当だろうと結論を付けました。今朝、妻ともよく話しました。彼女もぼくとほとんど同じようなことを考えていました。

もう一点だけ。
カンパであろうとお金をいただく以上、いつどこで何に使ったということは、一円なりとも記録して後で報告すべきだと思っていましたが、それは実際問題無理だと思い直しました。領収書はとりますが、震災で被害を受けたところで使うお金にすべて領収書がもらえるわけがない。そうでなくても、日々の生活の中で領収書のない金銭のやりとりがいったいいくつあるか。もし領収書を徹底的にとったとしても、そのことやそれを記帳して報告するという手間はけっこうなものになるでしょう。そんなことに労力をさくことで本来の仕事に支障が出るとしたら、いったいぼくは何をしに行ったんだということになります。本末転倒ということにもなりかねません。

そういうわけなので、概算としていくら使いましたという報告はしますが、一円単位で報告すべしと言うような無理なことはできません。なんせ一人でやっている仕事なのですから。それも含めて、会計の専門家がいて後方部隊もいるといったボランティア団体にこそ、一般の方からの募金は向けられるべきだと思うのです。

だいぶ長々と書いてしまいましたが、これが募金に関するぼくの結論です。
一般の方々からの募金は、ぼくのような個人活動ではなく、しっかりとしたシステムを備えたボランティア団体に向けられるべきだと強く思います。その方が、被災者の方々にとってよりメリットがあると思います。

今回のことで、ぼくはお金をいただくと言うことがどういうことなのか、けっこう真剣に考えることができました。こういった機会はそうありませんでした。これも生きていく上での学びの一つですね。勉強になりました。

帰国

昨晩遅く銚子に着いた。妻の実家である。早朝から夜までのフライトはしんどかったが、なんだか目がさえて12時を回ってもまだ眠れなかった。

11時頃、義父母とお茶を飲んでいると、地震があった。初め突き上げるような感じで、そのあとゆっさゆっさと来た。家の壁がきしんだ。義父母に言わすれば、これは小さい方の余震だということだが、長い間オーストラリアにいた自分にとって、ものすごく久しぶりの揺れで、緊張もしたし乗り物に酔ったような気分の悪さも感じた。
この程度の揺れで、これだ。そのとき、いったいどれほどのことが起きたのだ?

ぐっすり寝て、今朝は朝からさっそく行動。まず市役所。住民票を入れて国民健康保険に入る。帰国の事情を話すと、信じられない早さで対応してくれた。郵便局で口座関係のことをすませ、福祉協議会というところに行って、「ボランティア保険」というものに加入。なかなか充実した保険内容なのだけど、なんと一番高いプランで年間720円。入らない理由がない。それを済ませて、今度はドコモ。携帯電話は今後の活動のライフラインになるのだから。

午後はスーパーと薬局で買いだし。しめて4万円。自分の食料分と、現地の子供たちへのお菓子など。

家に戻ると、十数箱の段ボールがラウンジルームに積まれていた。4カ所の宅急便屋から荷物を受け取った義父はびっくりしていた。
沖縄若松病院からの荷物は大量の大人用紙おむつ。それとミネラルウォーター。水は銚子のどこに行ってもなかったから、これはほんとにありがたい。被災地の小さな子供のお母さんたちにお渡ししよう。
パースのルーカスさんからは食料やペットフードなど。ペットのいる方にはありがたいものだと思う。
隠岐の島の高梨先生からは長靴。電池、食料。長靴のサイズがぴったりだった。
アウトドアのモンベルで働く智子ちゃんからは、最新式キャンプ用ガスコンロとガスカートリッジ。それとドライフード、マスク、ヘッドランプ。嬉しい。

続々と支援物資も集まる。明日最終調整をしてパッキング。土曜の朝にここを出る。

2011年3月29日火曜日

出発

もうそろそろ家を出ます。
明日早朝5時半の飛行機なので、今日のうちにパース行っておかねばなりません。

今日も朝から、ほんとに大勢の方から援助の申し出と、ぼくの足りない部分に対する助けを得ました。一人の思いから始めたことですが、この活動はみんなの力がなくては一歩も前には進めなかったと思います。まだ本当の「始まり」には至ってませんが、助走はしっかりとできています。

成田着は明日の夜になります。銚子の妻の両親が成田まで迎えにきてくれます。銚子に着くのは夜も遅くでしょう。一晩しっかり寝て、また木曜の朝から、準備を始めます。ブログもその時に更新します。

資金援助の申し出がほんとにたくさんあり、ぼくは初め面食らっていました。でも、実際行って身体を動かすのはAさんの仕事、その活動を資金や物資で支えるのはBさんの仕事、といった役割分担だと考えれば、思い切って、そして感謝しつつ受けることにしました。今回は、ぼくがたまたまAさんの役回りだったということです。

そういう考えに至ったので、次回のブログに、ぼくの銀行口座の詳細を載せようかと思っています。でも、お金の関わることは、とても慎重に考えるべきなので、もう少しきちんとした文章を次回書きたいと思います。

ほんとにみなさん、ありがとう。
それでは行ってきます。

2011年3月28日月曜日

出発日決定

出発日が決まった。
3月30日水曜日。カンタス航空・早朝5時半。

今朝カンタスに、スポンサーシップを依頼するファックスを送り、その二時間後に電話を入れた。なかなかその担当部署につないでくれなかったのだが、ようやく探し出して担当者と話をした。しかし先方は「検討して連絡するから」と言うばっかりで、初めまったくとりあってくれない。通常3週間の検討期間をいただいておりますなんて仰るのだが、いやいやいやまってくれ、これは一種の緊急援助なので、今すぐ決めて欲しいんです! とまくし立てつつねばった。じゃあちょっと上司と・・・、こちらから折り返しお電話を・・・、なんてことのあったあと、400ドルオフならいけますと返事が来た。ええ?たった? しかし、これまであたった他の航空会社はまったくダメだったし、旅行会社も難しかった。ここらで手を打つべきか?
仕方ない、これで行こう!と覚悟を決めた。なぜならぼくには、行かないというオプションはないのだ。
そう決心した瞬間、一つのメールが飛び込んできた。パースに住む方だが、ぼくにはまったく面識のない方だ。金銭的な援助は必要ないでしょうかという内容。航空券に支払う金額に腹をくくった直後に、突然こういったメールが届いたので、ぼくはもうジンときて泣きたくなってしまった。共時性というフロイトの言葉すら思い出す。

フルーティストであり作曲家である奈緒子さんとその愉快な仲間からも、資金援助をしてもらえることになった。彼女たちもすごく積極的にパース市内で街頭パフォーマンスをしていて、そのドネーションの金額ったら、ちょっと驚きだ。パースの人たちの日本の被災者の方々に対する熱い気持ちは感動的ですらある。
彼女の行動の詳細は以下に詳しいです。

銚子市医師会からも返信あり。具体的に必要な物品が分かれば、協力できると。

岩手県タイマグラの友人からメール。タイマグラの小さな村の給油所にもガソリンがようやく届きましたと。状況はどんどん変化している。いい方だけに変化していることを願う。

その他にも、とてもたくさんの方々から援助の申し出あり。いちいち感動する。
現地の状況を知らせてくれる方もいる。いろんな提案もいただき、ほんとにありがたい。

朝から荷物の仕度。基本的には「自分の身は自分で面倒を見る」わけで、寝袋・テントなどといった、キャンプ道具一式。現地で被災者の方の毛布を借りるわけにもいかないだろうて。防寒対策もしっかりと。向こうはゴールデンウィークが明けるまでは雪の準備は怠ってはいけないと言われた。

しっかり準備をしているつもりでも、次から次へと問題発覚。発覚したからには対処しないといけないわけで、そういうわけで、今日のブログはこれにて。

2011年3月27日日曜日

帰国支援計画ー6

毎日の出来事があまりに多すぎて、ブログへの記録がまったく追いついてない状態。
出発準備に忙しくなってきたので、経過や詳細はすっ飛ばして、決まったこと、保留事項、問い合わせ中などをメモとして記録する。

決まったこと(希望含む)
  • 沖縄県医師会からの派遣:4月15日から22日まで。岩手県大槌町の予定。
  • 銚子に住む妻の両親に連絡。義父のパジェロを貸してもらうことになった。支援物資を銚子で積み込み、北に向かう。おそらく4月2日ごろ発てるだろう。沖縄県医師会への合流までは、岩手の医療機関と提携を持ちたい(これはまだ決まってないことだけど)。
  • 岩手の友人より、宮古の近くで奮闘している黒田ドクターの話を聞く。行政機能はマヒ。国境なき医師団が入っているらしいが、短期の支援の可能性。ぼくがあとを継ぐか? 詳細の連絡待ち。
  • 病院の事務局のサム(かっこいい女性です)が、病院スタッフに対してチャリティーを募ってくれた。ぼくからもスタッフに手紙を書いて、彼女にメールで転送してもらった。ぼくの下手な英語をサムが添削してくれたのだが、すごく心を打つ文章に変わっていた。感謝。募金はまだ続いているようなので、来週初めにでも病院にチャリティーをもらい受けてくる予定。病院内でいろんな方に声をかけられた。「がんばってきてね」とか「あんたはすごい」とか。手紙をくれる人までいた。実のあるものにせねば!
  • サムの計らいで、地方新聞のインタビューを受けた。来週木曜の配達なので、ぼくがみることはできないだろうが、読者の方々にオーストラリア赤十字経由で日本の震災地へのドネーションをお願いしますと伝えた。ちなみに募金アドレスは:"WA is here for you"
保留事項・問い合わせ中
  • カンタス航空より申請用紙がとどく。ただでチケットが欲しいのなら、これにキチンと書きなさいと。用紙が届くまでに1週間。大きな会社は動きが遅い! ぼくは英語が下手なので、翻訳家である妻に「心を打つ文章」を依頼。明日月曜にファックスして、すぐさま電話を入れる予定。絶対に説得してやるぞ。
  • 昨日、銚子市医師会に連絡。銚子を発つ前に、医薬品や衛生材料のドネーションがいただけないかと。返事待ち。期待している。
  • 岩手県医師会、宮城県医師会、福島県医師会、それぞれに「医者いりませんか?」のメールを入れてみたが、やはり現場はそれどころではないようで、ほとんど返信なし。1ヶ所だけ、いまそれどころではない、という内容のメールが返ってきた。煩らわせてしまったことを反省。草の根的にすべきだった。

2011年3月26日土曜日

ところで略歴など

このブログはつい先日始めたばかりで、友人や知人に対する報告の意味合いと、自分に対する記録を兼ねたものだ。ところが、あちこちにメールを送っているうちに、これは自分のやろうとしていることの「証明書」のような役割も担っていることに気付いた。青森の中村さんからは、もっと使える可能性がありますよとの提案も受け、それならばと、とりあえずは履歴書のようなものを書いてみる。

山内肇(やまうちはじめ)男
1961年 沖縄県読谷村にて生
1989年 琉球大学医学部医学科卒(3期生)
同年 沖縄協同病院にて研修開始
1991年より93年 第33次南極観測隊にて越冬(医療担当)
1994年 島根県隠岐病院にて内科担当
1996年 オーストラリア移住
(そのときよりしばし医療を離れ物書きとなる。とはいえ、その間3度南極観測隊の夏隊に医療担当として参加)
2008年 西オーストラリア州 Bunbury Regional Hospitalにて十数年ぶりに医療現場に復帰。異国の地で研修医として再始動。苦労す。
2010年より現在 西オーストラリア州 Peel Health Campus にて内科病棟研修中

将来の予定としては、ここオーストラリアでGP(家庭医)の資格を取って開業すること。
代替医療や栄養療法を学んできたので、これまでここで築いてきたネットワークを生かし、いわゆる統合医療をしたいと考えている。
だが、まずはその前に二つ目の国家試験(臨床試験)をパスする必要がある。

妻1人、子供3人(息子・娘・娘)の5人家族。さらに犬1匹、ニワトリ3羽、カナリア1羽。
特技・趣味としては:大工少々、マック使い、役者も少したしなむ。普通自動車・中型二輪免許あり。

こんなところです。
家具が作れるところが、自分としては売りだと思っています。

帰国支援計画ー5

初めに書いたように、ボランティアなら6週間。それ以上ならなんらかの収入を得つつ3ヶ月までーーー、これが妻との同意事項かつ条件となった。自分としてもリーゾナブルだと思う。もちろん妻と子供たちはオーストラリアに残る。

そのことを高嶺先生にメールした。週末なので週明けまでちょっと待ってくれとの返信。
業務の再開する月曜日が待ち遠しい。これできっと行けるだろう。

月曜日。期待していたのだけど、高嶺先生からのメールによると「数ヶ月の採用だとしても、職員として体制を組むのが難しい」ということとなった。そうか、ああそうだろうなあ。当事者の気持ちを考えれば、理解できる。

ところで・・・、と高嶺先生のメールが続く。
沖縄県医師会が医療チームを現地に派遣しているから、そこに参加するという方法を取れないだろうか、と彼の提案。ぼくはどんな形でもかまわない。よろしくお願いします、だ。

さっそく高嶺先生が直接沖縄県医師会に連絡を取った。と同時に、ぼくらの共通の友人である喜納先生にも連絡を入れてくれた。開業医である彼の医院に、ぼくの籍を置くことで「沖縄県からの派遣」という形が取れやすくなるんじゃないかという理由。琉球大学出身で沖縄で働いた経験があるとは言え、ぼくは現在オーストラリアにいるのであり、県医師会とのかかわりはまったくないのであるから。十手先まで読んでいる高嶺先生に感謝。

翌日には、喜納先生からもメールが届く。できる限り協力すると。彼もとても心を痛めていて、ぜひ現地で支援活動に参加したいのだけど、開業医であり在宅患者を抱えている身なので、どうにも動きが取れないのだと。そういうわけだから、どんな形でも協力は惜しまないのだと言ってくれた。卒業以来20年は会っていない同級生の言葉に、嬉しくて涙が出そうになった。

沖縄県医師会の上原さんからメールが届く。高嶺先生から連絡がありました、これから検討します、という内容。ぼくはもう、熱意のありったけを書いて返信メールを送った。

と同時に、航空会社にメールを送る。単刀直入に、オーストラリア・成田間の往復チケットを一人分くれと。あなたの力で、一人医者を送ってください的に、もちろんすごく丁寧に。たのむぞカンタス!

帰国支援計画ー4

Twitterで、沖縄の友人(山代兄)が支援のことをつぶやいていた。さっそく問い合わせる。
すぐさま彼から、それなら沖協の高嶺先生が情報を持っているはずだと返事。高嶺先生ならぼくのかつての同僚だ。もう間髪入れずに連絡。沖縄民医連が東北に応援を送っているので、そこの病院の支援に参加すると言う形でいけるだろうとの返事。しかしともかく、どれくらいの期間支援可能なのかを知らせてくれと。

どれくらい行けるか? 1週間、2週間? 1ヶ月? あるいはもっと?

ぼくの仕事はカジュアルワークなので、休むと収入がまったくない。有給休暇などというすてきなものは付いていないのだ。貯金を食いつぶしつつここを離れるとなると、どこまで可能か?

さあ、そうなると自分一人で決めるわけにはいかない。そろそろ妻と話しあうときが来た。
その内容は一番初めに書いた「帰国支援計画ー1」に。

それが土曜日。
ここまでが最初の1週間だった。

帰国支援計画ー3

実は、震災のあった日、ぼくは「これはもうとにかく行くしかないだろ」と思っていた。
その日は夜勤で、夜11時に仕事を終えて、100キロの距離を運転しながら家に戻る途中、ずっとそのことを考えていた。明日にでも飛行機に乗って成田に行き、寝袋の入ったザックを担いで現地に行こう、と思っていた。

なかなか眠れなかったが、とにかく休んだ翌朝、オーストラリアのテレビチャンネルから流れるニュースとインターネットからのニュースをむさぼるように見た。

新聞やテレビからは、とにかく現地はたいへんなことになっていて、町がまるごと流されたとか、かろうじて逃げてきた人たちが避難所でいかに悲惨な状況にあるかということが、これでもかこれでもかと流されていた。なにが足りないとかいうのではない、何もないのだ。信じられないくらい大勢の人たちが、何もかも失ったのだ。もう、言葉を失った。

医者が足りないなんて言うレベルの話ではなかった。水、食べ物、生きるためにまず必要なものがない。まずそこだ。ぼく一人がひょっこり現れて何かができるなんて、これはあまりにも非現実的で甘い考えだ。たぶん、邪魔になるだけだろう。いや、それ以前に、なんの準備も後ろ盾もない自分は、きっと現地に入ることすらできないに違いない。熱意の空回りだ。

これは腹をくくるべきだと思った。

どのタイミングで、どういう形で行くのがいいのか。

いま現場で必要とされているのは、おそらく「熱意」よりも「効率」だろう。より実効のある支援がこそが求められているに違いない。

よし。それなら、よく調べて、よく考えて行動しよう。自分の持つ、小さくて限られた力をなるべく効率良く使ってもらえるようにしよう。

その視点で、もう一度ニュースやインターネット上の情報を眺め直した。

帰国支援計画ー2

月曜に仕事に行くと、ポケベルが鳴った。Samからだ。

「ハジメ、メール受け取ったわよ。ロスターのことは心配しないで。何とかなるから。それより、病院のスタッフにわたしからドネーションを募ってみようか? この病院から直接支援に出る医師がいるとなると、きっとたくさんのスタッフが協力してくれると思う。どう思う?」

なんということだ。どう思うって言われても、ぼくは「ありがとう」としか言えないじゃないか。
「じゃあ、メールを私が書いて、全スタッフに送っとくから」

彼女のその親切に、ぼくはちょっと泣きそうになった。

「Sam,ほんとにありがとう。日本国民を代表して、君にありがとうと言わせてくれ」
いつもよりブロークンな英語でぼくはSamにそう言った。

ものごとは、決心と行動でいかようにも動くのだ。
決心は人を揺さぶり、行動は人を動かす。

帰国支援計画ー1

ずっと考えていたことだけど、先週の土曜日の夜、妻に言った。

「おれ、しばらく被災地に行ってこようと思っている」

ぼくの人生は、気がついたら「決めてから伝える」というパターンだった。何かを相談して決めたり決めなかったりということは、ほんとに少ない。親にも妻にも、重要なことはいつも自分で決めてしまう人なのだった。だから、今回のこの決心も、反対されたとしてもぼくは行くぞという気持ちのもとであったのだった。
もちろん、反対される理由はいくらでもある。まず、どうしてわざわざオーストラリアにいるあなたが行かなくちゃいけないの、あるいは、あっちは放射能とかであぶないでしょ、なんてことも。その間の私たちの生活は? 収入はどうなるの? という理由だって充分正当である。
しかし、どんな反対があったとしても、ぼくの気持ちは固まっていた。つまり「向こうにいる人たちのことを考えると、苦しい」のだ。これ以上の行きたい理由があろうか、いや行かねばならぬ理由があろうか。

そんなこんなを0,5秒くらいの間に考えていると、妻は言った。
「いいよ。いつそれをあなたが言うかと待っていた」

ものすごくあっさりと、気が抜けるくらいあっさりと妻が言った。

「うん、じゃ、行ってくる」

そんなこんなで、アッと言うまに具体的な話へと。
一番の懸案は収入の途切れることだ。わずかな貯金と照らし合わせた結果、

1.完全ボランティアなら6週間が限度
2.もし現地で収入が得られるのなら3ヶ月までOK

というコンセンサスを得た。
あとは、職場だ。月曜日、さっそく事務課のSamにメールを送る。こうこういう理由で、ぼくは日本にしばらく戻ります、つきましては4月のロスターから、ぼくの名前をすべて外して下さい。他の医者にしわ寄せが出るのは分かっているが、ぼくはもう決めたのである。