実は、震災のあった日、ぼくは「これはもうとにかく行くしかないだろ」と思っていた。
その日は夜勤で、夜11時に仕事を終えて、100キロの距離を運転しながら家に戻る途中、ずっとそのことを考えていた。明日にでも飛行機に乗って成田に行き、寝袋の入ったザックを担いで現地に行こう、と思っていた。
なかなか眠れなかったが、とにかく休んだ翌朝、オーストラリアのテレビチャンネルから流れるニュースとインターネットからのニュースをむさぼるように見た。
新聞やテレビからは、とにかく現地はたいへんなことになっていて、町がまるごと流されたとか、かろうじて逃げてきた人たちが避難所でいかに悲惨な状況にあるかということが、これでもかこれでもかと流されていた。なにが足りないとかいうのではない、何もないのだ。信じられないくらい大勢の人たちが、何もかも失ったのだ。もう、言葉を失った。
医者が足りないなんて言うレベルの話ではなかった。水、食べ物、生きるためにまず必要なものがない。まずそこだ。ぼく一人がひょっこり現れて何かができるなんて、これはあまりにも非現実的で甘い考えだ。たぶん、邪魔になるだけだろう。いや、それ以前に、なんの準備も後ろ盾もない自分は、きっと現地に入ることすらできないに違いない。熱意の空回りだ。
これは腹をくくるべきだと思った。
どのタイミングで、どういう形で行くのがいいのか。
いま現場で必要とされているのは、おそらく「熱意」よりも「効率」だろう。より実効のある支援がこそが求められているに違いない。
よし。それなら、よく調べて、よく考えて行動しよう。自分の持つ、小さくて限られた力をなるべく効率良く使ってもらえるようにしよう。
その視点で、もう一度ニュースやインターネット上の情報を眺め直した。
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